Apr 26, 2008

教育ってやっぱり大事―マンキュー教授 NYTコラム

教育レベルを受ける、ウィリー・ウォンカの言うチョコレートバーを得るようなものだろう。多くの人がそれによって、想像を超えるような機会を与えられる黄金のチケットである。でももし、黄金のチケットを得るような幸運に恵まれなくても、チョコレートを食べて楽しむことは出来る。それだけでも投資する価値はあるというものだ。

グレゴリー・マンキュー
2008420日 NYタイムズ

The Wealth Trajectory: Rewards for the Few

最近の米経済に議論するまでもなく明らかなことは、金持ちにとっていい時代だということだ。
もちろん、金持ちであることがダメであることなんてないことは知っているけど、今ほど甘美である時代もないのだ。
私達は、華々しいヘッドラインを日々見ている。金融欄に、ゴールドマンサックスのCEO、リロイド・ブランクフェインが68.5百万ドルの家を購入したとか、政治欄に、ビルとヒラリークリントンは、過去8年で109百万ドルを拠出したなどを見る。これらの話は例外ではない。数字を扱う経済学者たちによると、長期的な格差の広がりというトレンドを反映しているという。
スーパーリッチに関するもっともわかりやすいデータは、パリの経済学大学トーマス・ピケッティと、UCバークレーのエマニュエル・サズによるものだろう。ピケッティとサズ教授は、税金還付の歴史的研究を進めており、最近2006年版をアップデートした。
それによると、米国の1万世帯分の1世帯の年収は1千万ドルを超えたという。このすごい幸運な家庭は15000世帯弱いることになる。全てをあわせると適度なサイズの街ということになる。(アスペンとかナントケットみたいなもの)
さらにいうと、このスーパーリッチは大きな経済のパイを手にしているという。1980年代には、トップ0.01%の人口が全収入の0.87%を得ていたが、2006年には、そのシェアが4倍の3.89%にまで増えた。これは1916年以来みたことのないレベルだ。
ピケッティとサズの批判者は、税金還付データは信用できないと指摘している。税法制は常に変化しており、金持ちは制度を誤魔化すことができる。だから、この収入変化の報告が、税の戦略が変化しただけなのか、本当の環境変化によるものか特定することができないというものだ。
この結論から無関係であることはとても困難だが、ピケッティとサズは、嘘でないものを見つけている。他のデータでは、自分達のすごいデータをめったに見せることはしないスーパーリッチに関する情報が欠けている。しかし、あまり裕福ではない反対側の収入スケールと比較すると他の情報ソースでも類似するからだ。
政府の最近の人口調査(CPS)を見てみよう。これは5万家庭をカバーしており、月間の失業率を算出することでよく知られている。税還付のように、CPSでも格差の上昇が認められている。1980から2005年の間、トップ10%の男性正規労働者の収入は、下10%の労働者よりも49%も収入を増加させている。正規の女性労働者も、同じような高収入と低収入の格差が広がっている。
このトレンドを別の角度で見るとジェンダーギャップは収縮している。女性労働者は男性のより所得が下の方にかつてはいたが、今や追いつきつつある。性差による所得は平等に向かう一方で、トップ10%と下10%の男性女性を合わせた収入割合の差は30%に上っている。
格差の上昇は何を意味しているのだろうか? 専門家は、ワシントンを見てその要因を探ろうとするが、その根拠は特定しづらい。政府の政策決定者は、仮にそれを望むとしても、税引き前の収入に影響を与えるような強力な道具をもたないからだ。
また、格差の増大傾向は、政治的な風が変わってもほぼ一定であることだ。もっとも裕福な家庭の収入のシェアは、ロナルド・レーガンのときの8年間とビル・クリントンのときもほぼ一定であった。
この優れた処方箋は私の二人のハーバードの同僚、クラウディア・ゴルディンとローレンス・カッツの、もうすぐ出版される本「The Race Between Education and Technology」に書かれている。ゴールディン教授は、経済歴史家で、カッツ教授は労働経済学者で、しばしクリントン政権でも働いた経験がある。彼らの基底には「格差の急激な増大の原因は教育の停滞にある」というものだ。
ゴールディンとカッツ教授によると、過去1世紀の技術発展は一定で、平均的な生活水準を押し上げただけでなく、熟練労働者の需要を非熟練労働者よりも増大させた。熟練労働者は、新技術を扱うことができるが、非熟練労働者は時代遅れになっていく。
20世紀の大半は、スキルの必要な技術変化は、教育の効果によって発展してきた。言い換えると、技術発展が、熟練労働者の需要を増大させたが、我々の教育制度は、この供給をむしろ早めた。結果的に、熟練労働者は、その需要の割には急激な恩恵を受けることがなかった。
しかし、最近物事は変化した。過去数十年にわたり、技術発展のペースは上がっているが、教育の進化は停滞してる。その数字は驚くべきことだ。1950年に生まれた同一条件の労働者は、1900年生まれの労働者より4.67年学校教育期間が長い。つまり10年ごとに0.93年延びている。その一方で、1975年生まれは、1950年生まれより0.74年長く教育を受けているに過ぎない。つまり10年あたりの成長は0.3年になる。
熟練労働者の供給が緩やかになり、彼らの給料は非熟練者に比べて増大した。これがゴールディンとカッツ教授の教育のフィナンシャルリターンの関係性の算出に現れているのだ。1980年は、大卒の個人給与の年率上昇率は7.6%に及んでいたが、2005年には、さらに12.9%まで上がった。大学院卒へのリターンはさらに上昇し、7.3%から14.2%まで増えた。
教育が広がる格差のトレンドに対する鍵である一方で、スーパーリッチの収入に対する説明としてはまだ不明瞭な点がある。大学や大学院に行くことは、リロイド・ブランクフェインやビルやヒラリー・クリントンのようなトップ階級に参加するのに十分とはいえないからだ。
しかし、どちらも教育が無関係ではない。ブランクフェイン氏が、もしニューヨークのパブリックスクールから落ちこぼれ、ハーバードやロースクールに通うことなく、直接職についていたら、主要な投資銀行のトップになっていなかったと思われる。
もし、クリントン夫妻が、ジョージタウンや、オックスフォードやィエール大学に通うことができず高卒のままであったら、ホワイトハウスで働いたり上院議員になれなかっただろうし、数百万ドルを選挙資金を集めたり、ましてやスピーチ一回10万ドルなど得るべくもないだろう。トップの教育は、多大な富を約束しないが、助けになるのも確かだろう。
教育レベルというのは、ウィリー・ウォンカの言うチョコレートバーのようなものだろう。多くの人がそれによって、想像を超えるような機会を与えられる黄金のチケットである。でももし、黄金のチケットを得るべく幸運でなくとも、チョコレートを楽しむことは出来る。それだけでも投資する価値はある。

経済学者は欲張り?

マンキュー先生のブログにあったのだけど、

契約についてのクラスを、経済学者が教えると、契約を行なうことで、市場を効率的にし利益が得られることを強調するが、哲学者が教えると、契約者双方が利益を共に折半するということを強調するらしい。経済学者は効率性を教えるけど、哲学者は平等を教えるということなのだ。それで、学生相手に実験をしたところ、経済学者に教わった学生は、安いものであれば、パイを配ろうとするが、同時に、自分達のためにパイ全体を欲しがるものでもあるとのこと。

この議論で思い出すのは、僕がサンフランシスコの大学にいるころ、ちょうどブッシュ大統領が最初の選挙の予備選を戦っていたころつまり2000年で、哲学の学部長と経済学部長のディベートがあった。哲学の学部長の弟さんは、日本の大学で英語を教えていることもあり、日本から来た哲学科の学生は珍しいということで個人的にも割りと僕の面倒を見てくれた温厚な先生だった。が、このディベートでは赤ら顔をもっと真っ赤にして議論をしていた。その熱くなる議論の根本的な違いは、上に指摘されてたように、効率性を強調するか、平等さを強調するかの哲学者と経済学者の立ち位置が違いにあると思う。話がかみ合うわけがないので、お互いを説得しようとすると、熱くならざるを得なくなる。

この先生は、アメリカの社会主義運動でも割と有名な方で、僕はその先生の授業も取ったけど(クラス自体は、アメリカのプラグマチズム)、今ではどちらかというと経済学的な考え方はしっくりきてるし、市場シェアや効率性、マーケティングなどを意識する職業にもついてる。じゃあ、哲学科でとったことなんて、まるでエキセントリックな怖いもの見たさで取った趣味みたいなものなのか?というと、単にそういうものでもなさそうだがそれを考え出すとまた夜眠れなくなりそうなのでやめようと思う。マルクスとかは、自分の中でなんだったんだというのは、でも少し考えてみたい気もするが、そんな時間がまったくないような気もする。


Ray Fisman reports:

All students [at Yale Law School] are required to take courses in contracts and in torts, and they're randomly assigned to an instructor for each class. Some of these teachers have Ph.D.s in economics, some in philosophy and other humanities, and some have no strong disciplinary allegiances at all. Professors are encouraged to design their courses as they see fit. Instructors from economics may emphasize the role of contracts in making possible the efficiency gains of the marketplace, while philosophers may emphasize equal outcomes for contracting parties. So economists teach about efficiency and philosophers teach about equality.
To figure out whether this affected their young charges, we put 70 Yale Law students in a computer lab, and had them play a game that would reveal to us their views on fairness....It turns out that exposure to economics makes a big difference in how students split the pie, in terms of both efficiency and outright selfishness. Students assigned to classes taught by economists were more likely to give a lot when it was cheap to do so. But they were also much more likely to take the whole pie for
themselves.

Apr 13, 2008

逆張りトレードの終焉

夜、雨が降っていたので週末の夜なのに飲みに行くことは止めて、長い夜をぼんやりして過ごすことになり、ふと自分の近況を振り返ることに・・・。
昨年の8月にサブプライム問題が一気に実態経済に影響を与えるようになった。それ以前から、クルーグマン先生はじめ、バブルは終わると警鐘を鳴らしていたわけでだけども、浴深くてアホなデイトレーダーなる人種は、泡沫に流されていった。僕もそのうちの一人で、広告制作会社を過労でやめて郷里にもどってから始めた安閑としてそして鹿児島の美しい自然の中にて行なうには異質なトレード生活に終止符を打たれる嵌めになった。市場からの退場というやつだ。それがきっかけで、本格的に転職活動をせざることになった。もちろん、デイトレードといういわばアービトラージの鞘取り合戦を、反射神経だけで永遠と続けるなんてことは考えたこともなかった。ドストエフスキーが、処女作が売れなかったらドニエプル川に身を投げようなんて悲壮な覚悟で投機屋になったわけではない。30を過ぎた男が必死の覚悟でなるものではないだろう。いつかわからないけど、広告や企業コミュニケーションという業界にもどるんじゃないかなということは頭の片隅にはあった。一体トレード生活というのはどういうものかというと、外為の市場は、日本時間の月曜6時から土曜の6時まで開いている。その間は、ずっとトレードしようと思えば可能だし、逆に言うと、その間、気が休まることはない。必然的に、PCの前に、芋虫のように張り付くはめになる。昨年の3月に、ロシアのヘッジファンドが暴れ、一時的に円を高騰させた時に、逆張りでき、はした金を手に入れ、それを元手に、デュアルコアCPUのPCを新調し、デスクトップのモニターをダブルにすることで、ますますPC前が快適になり自宅の部屋からすらほとんど出なくなった。
その中で、ネットサーフだけでは飽きがきたので、チャットすることで暇を潰すことになった。特に、外国の女性と話をすることが多く、中には日本に在住されてる方々には実際にお会いすることになったこともある。そのチャットで、モスクワの女性に出会った。かなり年齢が若いがアメリカのロック好きで、写真を見る限りではかなりの美貌ということで、毎晩彼女が職場から帰宅するというあちら時間で7時、こちらで午前1時から1時間ほどのチャットをほぼ毎晩行なうことになった。現実的に考えると、モスクワの子とチャットだけで関係を続けるなんて不可能だが、デイトレーダーの生活は、すべて電脳の中にあり、それが夢をかなえる部分がないこともないわけだ。トレード如何によって、自分の銀行残高は膨れ、それがPCや服などに変換されるわけだし。ちなみにそのショッピングもオンラインで行なっていた。そうすると恋人だって、電脳空間を通じて見つかるかもしれないと考えてもよいのだ。だが、結論からいうと、それはデイトレーダーの泡沫の望みであり、サブプライムという人為的災害の現実がトレーダーを泡沫の夢から引きずりだし、市場から退場させたように、ネットでの超遠距離恋愛もどきは、現実的なコミュニケーションの不可能性の前に引きずりだされ、終止符を打たされることになった。しかし、注目すべきは、僕達の関係(ネットでの関係だけじゃ、言ってみれば始まってすらないが・・・)が、終わったのは、サブプライムによる金融不安が顕在化した後の昨年の8月のことで、トレーダー生活もほぼ終わった、職業的にはもっとも不安定な時期に始まったことになる。そして、この度、僕がとある米国メディア企業への転職が決まったことで、その関係が終わったことになる。
今振り返ると、つまり、これは過去の出来事なのだが、毎日毎日ほんとにくだらないどうでもいい会話ばかりを繰り返していたように思う。ただなんとなく話すことが目的化した、一日の中のリチュアルのようなものだったんだろう。今では、東京時間に合わせて起きる生活になったので、平日の午前1時以降に話をするなんてこと自体、現実性がない。
過去を清算するというのがどういうことかよくわからないが、要するに、トレードの暇つぶしで始まったチャット恋愛もどきはやっぱり単に暇つぶしだったのだという陳腐な着地点と言える。そういえば恋愛事態も単なる暇つぶしではないのか。いや人生そのものが果たしてそうではないと言い切れるのだろうか・・・