May 10, 2008

クルーグマンWSJの大統領候補者の経済政策の見方に絶望


WSJの経済学者への調査で、どの大統領候補者の経済政策がもっと責任あるものであるのかというのを行なったが、半数以上の経済学者が答えを保留したが、答えた中では、マケインがもっとも指示されたというのだが、クルーグマンに言わせると、マケインの経済政策もろくなもんじゃないということ。WSJがオバマ-クリントンより、マケインがよいという根拠は、経済といよりビジネス社会にとってよいという意味ではないのか、いやいやそれにしてもひどい見方じゃないかと嘆いてる。

ところで、クルーグマン先生も、経済学者というより、ニューヨークタイムズのコラムニストとしてのポジションニングから、WSJがマードックのテイクオーバーから一般紙的な傾向を増している中、NYTと競合してる中で、逆に、WSJの経済視点の稚拙さを指摘し、NYTが経済クオリティを上げているように見せ、WSJの攻勢に迎撃しているような、米新聞業界の攻防が垣間見えなくもなかったりして。



Why you should hate economists

From the WSJ:

Almost half of the economists in the latest Wall Street Journal forecasting survey decided against answering a question on which presidential candidate offers the most responsible fiscal policies. However, Sen. John McCain was the clear favorite of those who answered the question.

McCain offers the most responsible fiscal policies? Notice that this wasn’t about who you think will be most economically sound in general, or who you think would be better at fiscal management in practice — although even there, nothing in the Republican party’s past 30 years offers any reason to believe that it would be responsible in any way shape or form. But this question was about what the candidate is offering — and McCain’s proposals are, demonstrably, wildly irresponsible.

It’s true that the WSJ seems to have surveyed business economists rather than academics. But this is still shocking.

May 6, 2008

東京の人口がまた日本の10分の1を越えたらしい

僕も最近地方から都市に流入した口である。ま、このセンサスには当てはまらないかもしれないけど。このような人口の流入に歯止めをかけることができないのは、衰退する地方にあり、これはいたし方のない状態である。ちなみに、僕は鹿児島から出てきたのだが、この地方の改革スピードの遅さは絶望的であり、風光明媚、空気や食事や酒の上手さを考慮しても、何かをしようなんて気を挫くには事欠かないのは確かである。例えば、僕のいた街は、6市町が合併した人口12万の中規模都市に生まれ変わり、新たに観光や産業の集積地としての方向を打ち出すべきなのだが、そのような息吹は合併後の2年の間にほとんど感じたことがない。例えば、観光地としてというなら、観光サイトをせめて英語板を出すとかまっさきに考えるだろう。鹿児島とほとんど緯度が変わらず、飛行機で30分程度で往来できる上海の富裕層に金を落としてもらうなどという発想は小学生でもすると思う。となると中国語のサイトも作りたいはずなのだが、2年経っても何も出てこない。出てくる兆しすらない。翻訳サイトなど、数十万もあればできるはずだ。その一方で、消防員への休日出勤過払いが1990年から行なわれており、つい最近まで行なわれていた。ということで累計4400万円の余計な支出が行なわれていたことが判明した。地方自治法の規定で、過去5年は遡って返還義務が発生するのでそのうち2500万円は返還されるが、残りの1900万は、どうするの?って聞いたら、黙殺された。法的には強制力がないのだけど、納税者からしたら泥棒紛いに違いはないわけで・・・やんなっちゃうねってとこでしょう。要は、この無駄な支出を翻訳サイトの構築でも使ってくれてた方がはるかに街にとって有効だと思う次第である。こんなやる気のない街に、ふるさと納税制度を使ってまで納税したいか、答えは否だろう。納税って、憲法に定められた義務だけど、僕らとしては、企業の株主のように、ちゃっと運営している自治体の株主になりたいと思うし、運営もそれなりのリターンとディスクローズに努めてもらいたいもんだ。

と、地方を考えるとき、わが街になるわけだが、この惨憺たる有様なので、そこで何かしたいという気が失せる。中央政界でのガソリン税についてのやり取りは、自民対民主という政治の引力ゲームになっている中、地方はガソリンが安い方がいいという言い方で、どうも利用されている気もしないでもない。しかし、その一方で、東国原知事のように道路は必要なんですという主張も出てくる。つまり暫定税率維持を望むというものだ。ただ、これだと車が必須の地方にとって道路税を削ってまで安くなくていいという主張だ。どっちがいいのかっていうと、いろいろ議論は出るだろうけど、国政を真っ二つにしてまで話す内容なのかという疑問もある。自民党の道路族という古くからいる泥臭い一派を一掃するという隠れたテーマもあるかもしれないが・・・。

結局、日本の政治や官僚の堅牢な家父長的な制度をぶっ壊していかないとやっぱりダメだと思う。この家父長制ってのは、儒教型の権力構造だけども、地方なら中央に頼りっぱなし、つまり親方日の丸の発想である。だから、わが街を見ても、自分をどうにかしていこうなって発想が皆無であることだ。常に、中央や県からの指導に従ってやっていくと。優秀な官僚様の指導だけでなんとかなるような簡単な世の中ではないのは一目な中、未だに、その発想は同じというのが、特に地方行政のあり方ではないかと思われる。中央に依存する地方、国民を食い物にする中央。それにうすうす気付いててもやっぱり鴨られる国民。東京に来さえすればなんとなかなるわけではもちろんない。しかし、地方の衰退の原因でもある、日本の行政だけでなく大企業には散見される依存型の発想、家父長制の幻想から目覚める必要があるんじゃないのかなあ。


<追記>

英語ブログに以下のように書いていたんだけど、つまり、鹿児島ってのは、活火山のもくもくとした熱い煙を見ながら、「わが胸の燃ゆる思いに比ぶれば、煙は薄し桜島山」なんて詠みながら倒幕と近代改革の野心を秘めて動いていたわけだ。そして、明治の鹿児島からは、西郷隆盛と大久保利通というとても対照的な人物を排出していて、西郷ってのは、江戸城無血開城に貢献し、その後政府の要職につきつつも、西南戦争で、近代化についてけない侍の側についてあっけなく負けて、田原坂で切腹した人間だ。大久保は、一方、そんな負け犬の片棒ではなく、理性的判断に従い日本の発展に貢献しようとした。鹿児島の人間は99%西郷ファンである。西郷大好きな人たちの鹿児島の今は、相変わらず風光明媚な風景以外は、完全に取り残された地となっていることだ。多分、大久保ファンが少なすぎるんじゃないかなあと。


sakurajima, located in middle of kagoshima bay is more than just mountain for people in kagoshima: it's soul and spirit. Lots of samurai from Kagoshima contribued to Meiji restoration that turned old feudal system to modern Meiji. Their hearts were heated up like explosion of sakurajima...could be as hot as Russian revolutionaries. One of major guys is named saigo takamori who abridged to the revolutionaries and old tokugawa clan to pass over regime peacefully. Thus Japanese revolution was achieved without blood. and saigo became high ranking minister later but step ouot of the status because he was too sympathized to old samurai who were overtly frustrated with modern system that took over their privilege so saigo came back to kagoshima and stay in this house and he eventually became a commander chief of those stressed samurai to fight against government armies. Obviously old samurais were useless sons of bitches against government forces that learned euronized technology and tactics. it's like fighting with a bamboo stick against a tank. As the consequence saigo chose to committed hara-kiri (cut stomach himself) for his end. But interesting thing was guys from the same Kagoshima were in authority side such as okubo toshimichi who later got killed by one of punk samurai. Saigo was smart and knew he was not going to win this war but his emotion was too sympathetic to obsolete guys while okubo followed for rational judgment to smash old ones. Two very opposite figures though both are smart from kagoshima in meiji period but people here certinaly love the one who chose less rational judgment somehow. because of beauty of aestheticism, yeah samurai romanticism whatever, but you know we need to choose rationality to certain things. Look now, what we got here. Anything but fucking beautiful scenenary and everything else is fucking behind the world. I would choose saigo as my friend for sure but I would definitely choose okubo as my business partner. Unfortunately kagoshima lacks okubo.

Apr 26, 2008

教育ってやっぱり大事―マンキュー教授 NYTコラム

教育レベルを受ける、ウィリー・ウォンカの言うチョコレートバーを得るようなものだろう。多くの人がそれによって、想像を超えるような機会を与えられる黄金のチケットである。でももし、黄金のチケットを得るような幸運に恵まれなくても、チョコレートを食べて楽しむことは出来る。それだけでも投資する価値はあるというものだ。

グレゴリー・マンキュー
2008420日 NYタイムズ

The Wealth Trajectory: Rewards for the Few

最近の米経済に議論するまでもなく明らかなことは、金持ちにとっていい時代だということだ。
もちろん、金持ちであることがダメであることなんてないことは知っているけど、今ほど甘美である時代もないのだ。
私達は、華々しいヘッドラインを日々見ている。金融欄に、ゴールドマンサックスのCEO、リロイド・ブランクフェインが68.5百万ドルの家を購入したとか、政治欄に、ビルとヒラリークリントンは、過去8年で109百万ドルを拠出したなどを見る。これらの話は例外ではない。数字を扱う経済学者たちによると、長期的な格差の広がりというトレンドを反映しているという。
スーパーリッチに関するもっともわかりやすいデータは、パリの経済学大学トーマス・ピケッティと、UCバークレーのエマニュエル・サズによるものだろう。ピケッティとサズ教授は、税金還付の歴史的研究を進めており、最近2006年版をアップデートした。
それによると、米国の1万世帯分の1世帯の年収は1千万ドルを超えたという。このすごい幸運な家庭は15000世帯弱いることになる。全てをあわせると適度なサイズの街ということになる。(アスペンとかナントケットみたいなもの)
さらにいうと、このスーパーリッチは大きな経済のパイを手にしているという。1980年代には、トップ0.01%の人口が全収入の0.87%を得ていたが、2006年には、そのシェアが4倍の3.89%にまで増えた。これは1916年以来みたことのないレベルだ。
ピケッティとサズの批判者は、税金還付データは信用できないと指摘している。税法制は常に変化しており、金持ちは制度を誤魔化すことができる。だから、この収入変化の報告が、税の戦略が変化しただけなのか、本当の環境変化によるものか特定することができないというものだ。
この結論から無関係であることはとても困難だが、ピケッティとサズは、嘘でないものを見つけている。他のデータでは、自分達のすごいデータをめったに見せることはしないスーパーリッチに関する情報が欠けている。しかし、あまり裕福ではない反対側の収入スケールと比較すると他の情報ソースでも類似するからだ。
政府の最近の人口調査(CPS)を見てみよう。これは5万家庭をカバーしており、月間の失業率を算出することでよく知られている。税還付のように、CPSでも格差の上昇が認められている。1980から2005年の間、トップ10%の男性正規労働者の収入は、下10%の労働者よりも49%も収入を増加させている。正規の女性労働者も、同じような高収入と低収入の格差が広がっている。
このトレンドを別の角度で見るとジェンダーギャップは収縮している。女性労働者は男性のより所得が下の方にかつてはいたが、今や追いつきつつある。性差による所得は平等に向かう一方で、トップ10%と下10%の男性女性を合わせた収入割合の差は30%に上っている。
格差の上昇は何を意味しているのだろうか? 専門家は、ワシントンを見てその要因を探ろうとするが、その根拠は特定しづらい。政府の政策決定者は、仮にそれを望むとしても、税引き前の収入に影響を与えるような強力な道具をもたないからだ。
また、格差の増大傾向は、政治的な風が変わってもほぼ一定であることだ。もっとも裕福な家庭の収入のシェアは、ロナルド・レーガンのときの8年間とビル・クリントンのときもほぼ一定であった。
この優れた処方箋は私の二人のハーバードの同僚、クラウディア・ゴルディンとローレンス・カッツの、もうすぐ出版される本「The Race Between Education and Technology」に書かれている。ゴールディン教授は、経済歴史家で、カッツ教授は労働経済学者で、しばしクリントン政権でも働いた経験がある。彼らの基底には「格差の急激な増大の原因は教育の停滞にある」というものだ。
ゴールディンとカッツ教授によると、過去1世紀の技術発展は一定で、平均的な生活水準を押し上げただけでなく、熟練労働者の需要を非熟練労働者よりも増大させた。熟練労働者は、新技術を扱うことができるが、非熟練労働者は時代遅れになっていく。
20世紀の大半は、スキルの必要な技術変化は、教育の効果によって発展してきた。言い換えると、技術発展が、熟練労働者の需要を増大させたが、我々の教育制度は、この供給をむしろ早めた。結果的に、熟練労働者は、その需要の割には急激な恩恵を受けることがなかった。
しかし、最近物事は変化した。過去数十年にわたり、技術発展のペースは上がっているが、教育の進化は停滞してる。その数字は驚くべきことだ。1950年に生まれた同一条件の労働者は、1900年生まれの労働者より4.67年学校教育期間が長い。つまり10年ごとに0.93年延びている。その一方で、1975年生まれは、1950年生まれより0.74年長く教育を受けているに過ぎない。つまり10年あたりの成長は0.3年になる。
熟練労働者の供給が緩やかになり、彼らの給料は非熟練者に比べて増大した。これがゴールディンとカッツ教授の教育のフィナンシャルリターンの関係性の算出に現れているのだ。1980年は、大卒の個人給与の年率上昇率は7.6%に及んでいたが、2005年には、さらに12.9%まで上がった。大学院卒へのリターンはさらに上昇し、7.3%から14.2%まで増えた。
教育が広がる格差のトレンドに対する鍵である一方で、スーパーリッチの収入に対する説明としてはまだ不明瞭な点がある。大学や大学院に行くことは、リロイド・ブランクフェインやビルやヒラリー・クリントンのようなトップ階級に参加するのに十分とはいえないからだ。
しかし、どちらも教育が無関係ではない。ブランクフェイン氏が、もしニューヨークのパブリックスクールから落ちこぼれ、ハーバードやロースクールに通うことなく、直接職についていたら、主要な投資銀行のトップになっていなかったと思われる。
もし、クリントン夫妻が、ジョージタウンや、オックスフォードやィエール大学に通うことができず高卒のままであったら、ホワイトハウスで働いたり上院議員になれなかっただろうし、数百万ドルを選挙資金を集めたり、ましてやスピーチ一回10万ドルなど得るべくもないだろう。トップの教育は、多大な富を約束しないが、助けになるのも確かだろう。
教育レベルというのは、ウィリー・ウォンカの言うチョコレートバーのようなものだろう。多くの人がそれによって、想像を超えるような機会を与えられる黄金のチケットである。でももし、黄金のチケットを得るべく幸運でなくとも、チョコレートを楽しむことは出来る。それだけでも投資する価値はある。

経済学者は欲張り?

マンキュー先生のブログにあったのだけど、

契約についてのクラスを、経済学者が教えると、契約を行なうことで、市場を効率的にし利益が得られることを強調するが、哲学者が教えると、契約者双方が利益を共に折半するということを強調するらしい。経済学者は効率性を教えるけど、哲学者は平等を教えるということなのだ。それで、学生相手に実験をしたところ、経済学者に教わった学生は、安いものであれば、パイを配ろうとするが、同時に、自分達のためにパイ全体を欲しがるものでもあるとのこと。

この議論で思い出すのは、僕がサンフランシスコの大学にいるころ、ちょうどブッシュ大統領が最初の選挙の予備選を戦っていたころつまり2000年で、哲学の学部長と経済学部長のディベートがあった。哲学の学部長の弟さんは、日本の大学で英語を教えていることもあり、日本から来た哲学科の学生は珍しいということで個人的にも割りと僕の面倒を見てくれた温厚な先生だった。が、このディベートでは赤ら顔をもっと真っ赤にして議論をしていた。その熱くなる議論の根本的な違いは、上に指摘されてたように、効率性を強調するか、平等さを強調するかの哲学者と経済学者の立ち位置が違いにあると思う。話がかみ合うわけがないので、お互いを説得しようとすると、熱くならざるを得なくなる。

この先生は、アメリカの社会主義運動でも割と有名な方で、僕はその先生の授業も取ったけど(クラス自体は、アメリカのプラグマチズム)、今ではどちらかというと経済学的な考え方はしっくりきてるし、市場シェアや効率性、マーケティングなどを意識する職業にもついてる。じゃあ、哲学科でとったことなんて、まるでエキセントリックな怖いもの見たさで取った趣味みたいなものなのか?というと、単にそういうものでもなさそうだがそれを考え出すとまた夜眠れなくなりそうなのでやめようと思う。マルクスとかは、自分の中でなんだったんだというのは、でも少し考えてみたい気もするが、そんな時間がまったくないような気もする。


Ray Fisman reports:

All students [at Yale Law School] are required to take courses in contracts and in torts, and they're randomly assigned to an instructor for each class. Some of these teachers have Ph.D.s in economics, some in philosophy and other humanities, and some have no strong disciplinary allegiances at all. Professors are encouraged to design their courses as they see fit. Instructors from economics may emphasize the role of contracts in making possible the efficiency gains of the marketplace, while philosophers may emphasize equal outcomes for contracting parties. So economists teach about efficiency and philosophers teach about equality.
To figure out whether this affected their young charges, we put 70 Yale Law students in a computer lab, and had them play a game that would reveal to us their views on fairness....It turns out that exposure to economics makes a big difference in how students split the pie, in terms of both efficiency and outright selfishness. Students assigned to classes taught by economists were more likely to give a lot when it was cheap to do so. But they were also much more likely to take the whole pie for
themselves.

Apr 13, 2008

逆張りトレードの終焉

夜、雨が降っていたので週末の夜なのに飲みに行くことは止めて、長い夜をぼんやりして過ごすことになり、ふと自分の近況を振り返ることに・・・。
昨年の8月にサブプライム問題が一気に実態経済に影響を与えるようになった。それ以前から、クルーグマン先生はじめ、バブルは終わると警鐘を鳴らしていたわけでだけども、浴深くてアホなデイトレーダーなる人種は、泡沫に流されていった。僕もそのうちの一人で、広告制作会社を過労でやめて郷里にもどってから始めた安閑としてそして鹿児島の美しい自然の中にて行なうには異質なトレード生活に終止符を打たれる嵌めになった。市場からの退場というやつだ。それがきっかけで、本格的に転職活動をせざることになった。もちろん、デイトレードといういわばアービトラージの鞘取り合戦を、反射神経だけで永遠と続けるなんてことは考えたこともなかった。ドストエフスキーが、処女作が売れなかったらドニエプル川に身を投げようなんて悲壮な覚悟で投機屋になったわけではない。30を過ぎた男が必死の覚悟でなるものではないだろう。いつかわからないけど、広告や企業コミュニケーションという業界にもどるんじゃないかなということは頭の片隅にはあった。一体トレード生活というのはどういうものかというと、外為の市場は、日本時間の月曜6時から土曜の6時まで開いている。その間は、ずっとトレードしようと思えば可能だし、逆に言うと、その間、気が休まることはない。必然的に、PCの前に、芋虫のように張り付くはめになる。昨年の3月に、ロシアのヘッジファンドが暴れ、一時的に円を高騰させた時に、逆張りでき、はした金を手に入れ、それを元手に、デュアルコアCPUのPCを新調し、デスクトップのモニターをダブルにすることで、ますますPC前が快適になり自宅の部屋からすらほとんど出なくなった。
その中で、ネットサーフだけでは飽きがきたので、チャットすることで暇を潰すことになった。特に、外国の女性と話をすることが多く、中には日本に在住されてる方々には実際にお会いすることになったこともある。そのチャットで、モスクワの女性に出会った。かなり年齢が若いがアメリカのロック好きで、写真を見る限りではかなりの美貌ということで、毎晩彼女が職場から帰宅するというあちら時間で7時、こちらで午前1時から1時間ほどのチャットをほぼ毎晩行なうことになった。現実的に考えると、モスクワの子とチャットだけで関係を続けるなんて不可能だが、デイトレーダーの生活は、すべて電脳の中にあり、それが夢をかなえる部分がないこともないわけだ。トレード如何によって、自分の銀行残高は膨れ、それがPCや服などに変換されるわけだし。ちなみにそのショッピングもオンラインで行なっていた。そうすると恋人だって、電脳空間を通じて見つかるかもしれないと考えてもよいのだ。だが、結論からいうと、それはデイトレーダーの泡沫の望みであり、サブプライムという人為的災害の現実がトレーダーを泡沫の夢から引きずりだし、市場から退場させたように、ネットでの超遠距離恋愛もどきは、現実的なコミュニケーションの不可能性の前に引きずりだされ、終止符を打たされることになった。しかし、注目すべきは、僕達の関係(ネットでの関係だけじゃ、言ってみれば始まってすらないが・・・)が、終わったのは、サブプライムによる金融不安が顕在化した後の昨年の8月のことで、トレーダー生活もほぼ終わった、職業的にはもっとも不安定な時期に始まったことになる。そして、この度、僕がとある米国メディア企業への転職が決まったことで、その関係が終わったことになる。
今振り返ると、つまり、これは過去の出来事なのだが、毎日毎日ほんとにくだらないどうでもいい会話ばかりを繰り返していたように思う。ただなんとなく話すことが目的化した、一日の中のリチュアルのようなものだったんだろう。今では、東京時間に合わせて起きる生活になったので、平日の午前1時以降に話をするなんてこと自体、現実性がない。
過去を清算するというのがどういうことかよくわからないが、要するに、トレードの暇つぶしで始まったチャット恋愛もどきはやっぱり単に暇つぶしだったのだという陳腐な着地点と言える。そういえば恋愛事態も単なる暇つぶしではないのか。いや人生そのものが果たしてそうではないと言い切れるのだろうか・・・

Mar 22, 2008

1929年のパーティのようだ―NYTコラム、ポール・クルーグマン

Published: March 21, 2008
ベン・バーナンキが、金融制度の崩壊を救えるのなら、かなり英雄的な努力とたたえられるだろう。
でも問うべきことは、どうしてこうなってしまったのかにある。
どうして、金融制度は救済しなきゃいけないのかということだ。
どうして、おだやかだった経済学者がスーパーヒーローにならなきゃいけないのかということ。
答えは、我々は率先して健忘症になってしまったことに対して代償を払っているのだ。1930年代に起きたことを忘れるよう選択してしまった。つまり、歴史から学ぶことをやめ、過ちを繰り返した。
常識とは反対に1929年の証券市場ショックは、大恐慌の決定的瞬間ではなかった。単なる不況を、何が市民生活を脅かすまでの窮地に変えたかというと、銀行の取り付け騒ぎの波が1930年から31年のアメリカ全土に及んだことだ。
1930年代の銀行危機は、非規制、非監視が、金融市場を簡単に大打撃をもたらす失策であるということを明らかにした。
それから数十年が過ぎたが、当時のレッスンは忘れ去られ―今やもっともすべきでない方法で再学習中である。
問題を把握するために、銀行が何をするのか理解する必要がある。
銀行は、預金者と借り手の反する願望を調整する役割がある。預金者は自由が欲しい―自分たちの預けているお金を、予告なしに引き上げたりする。借り手は、コミットメントを望んでいるわけではなく、突然の支払い催促されるような状況を望んでいる訳ではない
一般的に、銀行は双方の願望を満たそうとするのだが、預金者は、好きな時に資金を引き出せるし、とはいってもほとんどの銀行は、長期的貸付を行い運用している。これが可能なのは、引き出し額と新たに預金される額は、均衡するからで、銀行はある程度のキャッシュさえあれが、役割を果たすのに十分なのだ。
しかし、ときに―ほとんど噂にすぎないのだが―銀行は、取り付け騒ぎで、多くの人が同時に引き出しにやってくることに直面する。そして取り付け騒ぎに直面した銀行は、需要を満たすためのキャッシュが不足し、噂が嘘であるにしても、崩壊することもある。
さらに悪いのは、銀行の取り付け騒ぎは伝播しやすい。もしある銀行の預金者が資金を失うと、他行の預金者も不安に駆られ、連鎖反応を引き起こす。そして、広く経済一般に影響を及ぼす。生き残った銀行は、借り手から支払いを催促しキャッシュを集めようとするので、銀行取付による悪循環が信用収縮をもたらしかねなく、これはビジネスを失敗させ、さらなる銀行に問題を引き起こす、などなどなっていく。
端的に193031年に起きたことは、大恐慌を災害にした。だから議会は、規制や金融制度にセーフティネットを提供して保障し、再度起きないように確かにしようとした。
そして我々は、その後しばらく幸せに暮らした―しかし、永遠にというわけではなかった。
ウォール街は、リスクを制限するが同時に潜在的な利益も制限する規制をこすりつけた。そして徐々に、自由にしていった―部分的に、政治家たちに規制を緩めさせ、しかし主要な部分は「影の銀行制度」を作らせ、複雑な金融アレンジによって、銀行を安全にするための規制をバイパスさせるものにした。
例えば、旧制度では、預金者は預金銀行をきつく規制する連邦預金保険があり、銀行はそのお金を住宅ローンの貸し出しに使っていた。時が過ぎて、しかし、部分的に、これが、預金者はその資金で、特別に投資手段であるコラテラルデットオブリゲーションとして証券化されたローンを買うことで、資産を背景にした証券を買うようになった。これで、規制監視者の目を誤魔化すのである。
数年が経ち、この影の銀行制度は、銀行ビジネスにどんどん取って代った。というのは、非規制されたこの制度のプレーヤーは、一般的な銀行よりも魅力的な提案をしていたからだ。その間にも、この勇気ある新しいセーフティネットの欠けた金融について心配していた人は、まったく希望もなく古い形で分解された。
実際、しかしながら、我々は1929年のようにパーティをしていたのだ―そして今やその1930年である。
金融危機は、銀行取付騒ぎの最新版として全米中を席巻し進行中である。人々は、銀行から預金を引き出しマットの下に隠すということはしていないが、近代的な類似のことをおこなっている。預金を影の現行制度から引き出し、それを国債に回している。その結果、金融収縮の悪循環が起きている。
FEDのバーナンキ氏と彼の同僚たちは、この悪循環を終えるために出来ることをすべてやっている。我々はその成功を祈るばかりだ。そうしないと、次の数年は、とっても不快になるだろう―もう一つの大不況、そうでなくとも、ここ数十年来最悪のスランプになるのはたしかだ。
たとえバーナンキ氏が終えても、経済を健全に運営するレベルではない。今こそが1930年代のレッスンを再学習し、金融制度をコントロールするべきときだ。

Feb 26, 2008

日本はダルファーの平和維持活動に参加すべき

フィナンシャル・タイムズ(FT)の記事に、高村外相が、日本もスーダンの平和活動にもっと参加するべきという話をしている。イスラエル―シリア間の緊張高いゴラン高原には、ドイツ軍は1万人規模の兵士を送っているのに比べ日本は50人だという。各国が兵士を送る背景には、平和維持という建前の裏に資源獲得の真意がある。あとはシーレーンなどの輸送路の安全確保にも目的がある。日本は資源のない国にもかかわらず、その双方において人任せにしているということになる。そういう国益を守る為の兵士の派遣には戦争をする為の準備などと言って、まるで理解のできない批判をするのが日本のマスコミの基本スタンスである。スーダンのダルファーは中国に武器支援された政府軍による虐殺が行なわれたところであるが、ここでの平和貢献を日本が果たすことは、今現在、日中間でもめているガス田の外交議論で牽制する動きになると思われ、ぜひやるべきだと思うが、基本的に日本外交は、そういう戦略的な動きはとらないし、とれない。基本的に譲歩という形を外交成果にしているので、ろくな成果は期待できないのが大方の見方では。

そして、この緊張感のなさが、そこのけそこのけイージス艦が通るに現れているのではないか。米軍のレイプが頻発するのも、日本の緊張感のなさの現われと思われる。米軍のレイプはじめ事件が多いのも、基本的に弛緩した地域に、未だ紛争中のコソボやロシアに近い欧州の米軍と同じような精鋭を置くことがないのは自然の成り行き。

ところで、毎日新聞の2月18日の発信箱で、欧州では米軍によるレイプ事件はまるでないと書いていたが、実は、事件は日本ほどではないけど、結構起きているとリンクを付けて指摘したら、すぐメールで軽率でしたと返事が来て、25日に、私(読者)に指摘されたことを取り上げていた。日本駐留米軍が、在欧州と比べ物にならないほど弛緩していることや、日本政府・国民の対応が欧州に比較して具体性がないという結論に異論はない。個人のブログなら誰々さんの伝聞でもいいのだろうけど、しかもその記事を、先週、報道ステーションで、古館アナが、欧州ではこんなことは一件もないなどと言っていた。数百万人に向かっての嘘をまたも目撃した次第である。

とはいってもまあ、個人的にはどうでもいい話かもしれません。はい。

世界経済ナンバー1

マンキュー先生のブログで見つけた経済調査。


A new Gallup poll:

"Which one of the following do you think is the leading economic power in the world today?"
 
 China: 40 percent
 
 The United States: 33 percent  
 
 Japan: 13 percent  
 
 The European Union: 7 percent 
 
 India: 2 percent

 Russia: 2 percent

日本のプレゼンスは、実際のGDPに比較して妥当ですな。中国は実際より遥かに大げさに考えられてるようだ。欧州が小さいのはなぜだろう。

Feb 25, 2008

中国の物価上昇は世界経済に与える影響はそんなにない

今後中国の物価上昇が世界インフレにつながるという心配する向きがありますが、クルーグマン先生は、米国に輸入する中国製品の価格が10%上昇してもアメリカの物価上昇には0.25%しか影響がないと言っていた。それで、WSJも同じようなことを言っていたことに驚いているご様子。ちなみにWSJでは、中国の物価の1%上昇は、日本やアメリカ物価上昇に0.1%影響を与えるとのこと。

Feb 22, 2008

70年代のリバイバルは勘弁-NYT(ニューヨーク・タイムズ)コラム、ポール・クルーグマン

Don’t Rerun That ’70s Show

By PAUL KRUGMAN

The New York Times Published: February 22, 2008

次の大統領はジミー・カーターの再来になるだろうか? 木曜日の経済関連のヘッドラインを見ていると、1970年代型のスタグフレーションの再来を警告するものが続いていたので、あなたもそう考えたかもしれない。

実際に、アメリカ経済の直面している今と1970年後半の比べても強い関連がない。これはよいニュースかも。

悪い知らせは、経済状況は似ているように見えるが、ブッシュ一世の時の経済よりも悪い状態にあることだ。そして、次の大統領が、翁ブッシュや、カーターのような運命をたどることを予想するのはそんなに難しいことではない。

カーター時代の経済について議論しよう。

ジミー・カーターの経済成績は、ほとんどの人が考えるよりすぐれている。彼の政権担当時の平均経済成長は3.4%で、ロナルドレーガン時代よりもわずかに高く、どちらのブッシュ時代よりも遥かに高い。

レーガンは、アメリカ国民に、4年前より進歩したかどうか尋ねた有名な出来事があったが、答えは、実際イエスであった。多くの家庭では、1976年より1980年のほうが、高い実質収入を得たからだ。

しかし、よい経済ニュースは、カーター政権の初期のころに現れた。一方で、彼の最終年は、主に石油価格上昇による原因による失業率とインフレを上昇させたと評価されている。

そして、いま再び、経済は、石油価格とともにインフレのコンビネーションのせいによる経済の弱体化に襲われている。

だからといって、今我々は1970年代のようなスタグフレーションにさいなまされているとは思わない。一つは石油への依存度は下がっている。アメリカは1979年の実質GDPは2倍になっているが、石油を消費は少し上回っているだけだ。また他には、かつてインフレを二桁に押し上げたような給与の上昇がない。実際は、給与成長はインフレ率が上昇しているけど、減少している。

よりわかりやすい比較は、今の経済は1990年初頭に似ており、今回はさらに悪化しているということだ。

ブッシュ一世が大統領のころ1990-1991に不況を引き起こした。彼の本当の問題は、回復しているとされているころに起こった。1980年代の不動産バブルの崩壊によって悪化させられ多くの銀行で金融問題が発生し、家計の負債の上昇などによって消費者支出が弱くなった

結果的に、失業率が、1992年のピークには7.8%まで上昇した。

もし、これが聞いたことある話なら、そのはずだ。多くの経済学者は、いまの状況と1990年前半を比較している、不動産バブル、サブプライム、多かれ少なかれ同じように貯蓄や貸し出し機関に、不良債権を抱える問題に役割を果たし、金融全般の問題を引き起こした。

違いがあるとすれば、今回は、もっとひどいことになっているということだ。より大きなバブル、もっとひどい金融不安、より根深い消費者の借金、そして、空前の石油価格がこのどれにもかかわっている。だから、もし歴史がなんらかの指針となるなら、我々は今回の経済弱体が、長く続くことを見ておくべきで、多分2010年くらいあるいはそれ以降まで引きずるかもしれない。

では次の大統領は、この悪化を収拾させることができるのか? 経済に直接関係すれば、答えはYESだ。

今となっては、カーター氏が他に手を施しようがあったのか不明であるが、スタグフレーションの問題は、手の施しようがないのである。しかし、弱い消費については扱い可能だ。大掛かりな国民を守る経済負担を軽くする―単に税金の還付をするだけで、誰も支出しないようなものではない―公共投資を強調した財政刺激計画なら、国の経済的な痛みを和らげることができるだろう。

政治的に、これは出来そうにもないように見える。

たとえ次の大統領が民主党でも、どんな刺激策も、強烈でイデオロギー色の強い議会の反発を食いそうだからだ。次の大統領は、効果的な計画のために戦えるだろうか? あるいは、今年、議会民主党が法制化の過程で、保守派の反対に押し切られ効果の少ない案に妥協したような案を見ることになるのだろうか?

最近まで、私は、次の大統領のもっとも大きな政治的な困難は、ヘルスケアの改革だとおもっていたのだが、いまでは、次の政権が最初に取り扱うべき最大の問題は弱体化した経済の建て直しだと考えている。

もし、効果的な行動がおこなわれそうには見えてこないと、次期大統領は、ジミー・カーターの苦しみを味わうことになる。彼は政権を次のような「結合と信頼に基づいた新たな国家精神を一緒に作り上げようではないか」という言葉で始めたが、アメリカを、強硬な右派の人の手に受け渡すことで終わった。

Feb 14, 2008

日本の食品偽装の顕われは、終身雇用体系の変化から―エコノミスト誌

餃子問題で、日中間に新たな国際問題化しつつある中で、この食品偽装問題が明るみに出ている状況は、日本の雇用体系の変化にあるのではとエコノミスト誌は見ている。まずそもそも、食の安全を見張る行政の無能っぷりが最初にある。だからほとんどの偽装発覚は内部告発によるもの。それはデフレ経済下で、食品などの価格競争が続き、食品企業の雇用体系がパートタイマーやフリーターに移り、かつての武士道の影響(まあ、これあんまり関係ないけど、外人は好きなのだろう)である「主人への(盲目的な)服従」が薄れ、内部告発が行なわれるようになったことにもあるのではと分析している。正社員として待遇を維持していれば、偽装の問題は表れなかったということになる。エコノミスト誌は、基本的にアジアや日本を蔑視しているので真に受けない方がよいだろう。武士道には、主人の悪行を自らの身を呈して止めさせるということにもある。パート・フリーターが増え、上の偽装を身を呈して止めさせる殊勝な従業員が減ったというのもあるかもしれない。そうすると武士道の薄れが原因なのだが、中身の主張がひっくり返る。そもそも景気がある程度よければ、確信犯は別にして、食品偽装する必要もなかったかもしれない。あるいは単に、安い中国産の食品が来てる中で、企業の改革に遅れたか失敗して、いく着く果てに偽装で乗り切ろうとしたのかもしれない。

直接口に入るものであるし食品は消費者から見て大きな問題なのだが、エコノミストの日本の異常なまでの衛生習慣の指摘は当たっていて、あまり過敏になりすぎずに情報を冷静に受け止め、自分で選択していくことが求められるんでしょう。

Feb 9, 2008

気の長い話になるけど NYTコラム、ポール・クルーグマン

クルーグマン先生、早くも次の大統領になる人に経済政策のアドバイスは

政府は何も出来ないからとりあえず減税するしかないと信じ込んでる文盲のイデオロギーに嵌るなとのこと。もうすぐ退陣する現政権とその取り巻きへの強烈なパンチ。

A Long Story, by Paul Krugman, Commentary, NY Times

Published: February 8, 2008

今週の経済ニュースはやや悲観的だった。信用収縮の悪化、サービスセクターを広く見るトレンド指標は―これが経済のほとんどともいえる―は、崖からまっさかさまに落ちた。まだ不況に向かっているのが確実とは言えないが、その確率はかなり増してきている。

過去の経験が示すのは、この困難は長く続きそうだという事―多分2010年の中ごろまでなるのではないかな。

今米国経済の直面している問題は過去2回の不況の原因と類似し、今回はそれらを複合したものだということ。

一つ、住宅バブルの破裂は2001年のドットコムバブルの破裂と重なる。その一方で、サブプライム危機による信用収縮は、1990年代に不況の原因となった1980年代後半に起きた貯蓄とローン危機と類似している。

過去2回の不況は短期的だったと耳にしていたかもしれない。確かに双方とも公式発表では八ヶ月しか続いたことになっていない。

この公式発表は多くの人の体験したことを考慮に入れると本当にひどいミスリーディングである。これには理由があって、ブッシュ政権(もう限界)は経済パフォーマンスは自分の判断基準で2003年から雇用は増加していると大賛美している。これは単に不況に入り2年半経ち、何が起きても、経済が回復してきたように感じはじめたころだったのだ。

その10年前にも同様のことが起きていた。1990年に始まった不況は公式では1991年の3月に終了し、雇用回復したといっても引き続き米国民には経済は弱いと感じており、それは1992年の選挙時期を通してまで続いた。

現在の米国経済の困難が1990年と2001年の組み合わせであることからして、経済的困難のエピソードも前の話と似てくるのである。たとえ公式不況期間は短期でも、実際の困難は次の政権まで引き継がれるのだ。

困難がどれだけひどくなるかって? この問題に潜む二つのバブル―住宅バブルと信用収縮の組み合わせ―は、1990年や2001年のころよりさらに悪化するだろうと見られている。

高く評価されている経済学者らも、悲観的な警鐘を述べている。カーマン・レインハートやケネス・ロゴフの新たな論文は、金融危機を経験した先進国と米国を比較しバズを鳴らしている。彼らはアメリカのプロファイルは「5つの巨大危機」に類似しているとしている:このリストにはスエーデンの1991年の危機、失業率を2年の間に2%から9%まで押し上げた例なども含まれている。

我々はそこまで不幸には見舞われないだろうが、ダメージを少なくするには何をすべきだろうか?

9月以来、FRBは、政策金利を5回切り下げ、それでもみんなまだ下げるだろうと考えている。しかし金利は、過去2回の不況時も劇的に下げられた―それでも不幸は数年も長引いたのだった。

その間、議会やブッシュ政権はとても大げさな刺激策パッケージ案に同意した。何もしないよりましだろうが、問題に対して目に見える効果を上げるとは思えない。というのは政権や上院共和党の主張は、失業保険の拡充や食料配給権のような効果的な対策を、まさに邪魔するものでしかないからだ。

そんな中でも、ホワイトハウスは1月に新たな住人を迎えることになる。もし不況が継続していたなら、もっともそうなりそうだけど、より効果的な対策を提案するチャンスだ。

特に今は減税や還付金を越える可能性を考えるよい時期だ。経済刺激としての公共投資はとても求められている。つまり、脆弱した国家インフラを修復することだ。

経済刺激策としての公共支出は長期にわたる―お金が流れるようになるころには不況が終わっている為、あまり普通ではない。しかし、今回の不況が長期にわたることになると、もはやそうなりそうだけど、それも問題じゃない。

しかし、次の大統領が二つの鍵となる性質がもたなければイノベーティブな経済支援を実施することはできない。

1、 彼・彼女は、現在の政権のように、政府は何もよいことが出来るはずはないと強く思い込み、減税するしかないという文盲たちのイデオロギーにとらわれていないこと。

2、 彼・彼女は、経済政策に精通し興味をもっていること。大統領が経済学者のトップである必要はないが、正しいアドバイスを得られる程度には知っておく必要がある。

我々は、こんな大統領を得ることが出来るだろうか? チャンネルを変えてはダメだよ。



ちょっと前に、マンキュー先生は、自身の50歳の誕生日の記念コラムで、

The campaign of Hillary Rodham Clinton, for example, wants to raise income taxes for those making more than $200,000 a year. Even by the campaign’s own reckoning, however, this tax increase would bring in only $52 billion a year — a mere one-third of 1 percent of G.D.P. And if higher taxes on society’s most productive members discourage economic growth, even this tiny number is an overestimate.

年収20万ドル以上の人に増税しても、税収は520億ドルしか増えず、これはGDPの1%の三分の一以下だし、この為に社会でもっとも生産的な人たちのインセンティブを下げることによる、経済的な成長はどこまで阻害されることやら、

と言ってたりする。でも、5兆円以上の税収ってどうなのかな? アメリカの国家予算はThe President's actual budget for 2007 totals $2.8 trillion.1ドル100円で計算すると280兆円。のまあ2%弱に当たる。これをどう見るかの問題なんでしょう。
 
日本の場合、給油税の暫定税を止める止めないの2兆円の予算を巡って、国政の議会の話題がかなり占められている訳で、うーん・・・。

Feb 8, 2008

ビル・ゲイツのチャリティ狂いを批判ウォールストリートジャーナル

途上国や貧国にチャリティを施してもいいことはなくて、 彼らが市場を発展させるつまり資本主義を整備して、徹底させることのほうが、発展には寄与するのだという主張。ウォールストリートジャーナルの記事らしくて分かり易い。

以前にも、ハーバードのバロー教授による同じような趣旨の記事を見た。ビル・ゲイツは、チャリティやっているよりMSに居た方が、社会価値を産むと、ロバート・バローというハーバードの経済学者が述べていた。以下抄訳。

マイクロソフト社の時価総額は2870億ドル、2006年は売上440億ドルで、利益が130億ドル。これらのお金は消費者に価値を提供してる。ウインドウズソフトの生み出した社会的価値は、少なくとも毎年440億ドル相当と見られる。これを22年分かけ、市場価値は、9700億ドルとなる。このように、将来価値としては数兆ドルの価値をゲイツ氏は生み出すことになる。これは、彼自身で運営するチャリティ財団の資産規模(900億ドル)の10倍にも相当する。

単純にアフリカなどの途上国の貧困を救済するにしても直接ドナーするだけでは解決にならない。世界銀行がどういった援助を行うべきかかなり苦戦しているではないか。貧困を減らしたもっとも優れた例は、1979年の毛沢東政権以降の中国の経済成長で、19792000年の間に貧困層を25千万減らし、2つ目の例としてはインドの成長で、19792000の間に1億4千万人減らした。

一方、低経済成長の西アフリカは逆に1979-2000の間に、貧困層を2億人も増やしている。

これらの例が示すのは、アフリカを中国やインドのように経済成長させることが貧困脱出につながるのだ。その一つの例が、政府統治機関の発展にあり、市場と資本の開放に鍵がある。アフリカの失策は政府にある。実は、外国からの援助はアフリカの悲劇を避けるのになんの役にもたっていないのである。

というのは、外国からの援助は政府を通して行われるが、巨大だが腐敗しており、市場の動きに無頓着である。こんなところにただ金をばらまくだけで貧困が防げるわけがない。ゲイツ氏の財団は、これまでのよりもほんの少し効率的に援助を行うだろうが、効果のほどは疑わしい。

投資家のウォーレン・バフェット氏は、懸命にもチャリティ活動に精を出していないが、社会的価値創造の観点からそちらのほうがよい。彼の投資活動は、企業の経営判断によい影響を及ぼし、余程社会的価値を生み出すからだ。

ゲイツ氏が何をしようと彼の自由であるが、マイクロソフトの将来価値と同等の価値をチャリティ活動からもたらすことができると考えているなら、お笑いではないか。それだったらいっそのこと、ゲイツ援助として、アメリカ国民一人300ドルずつ配ったほうがましだろう

ビル・ゲイツが引き続き猛烈な勢いで、ソフトを開発し続けることが前提になっているので、しかも後22年間も働くというので、MSで引き続き仕事したほうが、チャリティ基金の4兆円の10倍を、世の中に生み出すという計算にはならないだろうけど。フリードマンの企業に唯一社会貢献する方法は利益を上げることだに忠実なわけだ

しかし現在のCSRはエコノミストのCSR特集で述べられたように

>>この種の企業はCSRに集中特化することで、古くからの大企業のCSRを副次的に扱うやり方に対してアドバンテージを持つ。自分の金を使い、計測できる結果も望む人たちだ。「やりがいがある」だけでなく「本当によい」ものを求めている。リスクに貪欲に、しかも金銭的なシビアで、社会的投資へのリターン指標を大企業に教えることになるだろう。

つまり、CSRは単にトリビアではない。6月にマイクロソフトのフルタイム職を去り華麗なまでに資金潤沢なチャリティ財団に移るビル・ゲイツに負うところがある。彼は2009年までに年間30億ドルを寄付するという。ここまでの寄付は誰も行ったものはいない。この資金を例えばアブソリュートリターンフォーロンドンキッズは、イノベーティブなチャリティを通じ、提供者の資金を途上国で起業する人たちへ投資してる。

とリターンにシビアな資本主義の論理が働いているので単なるばら撒きではない。

Feb 7, 2008

餃子外交、日中は意外と協力的―フィナンシャル・タイムズ

日本のマスコミの毒入り餃子のフィーバーぶりすごいものがあるが、日中政府双方の対応は、意外なほど協力的だとフィナンシャルタイムズは述べている。毛沢東が健在で、パンダなんか送られてた頃は、日本人も中国には友好的だった。しかし、天安門事件から中国内で日本鬼子などいってある日突然日本を悪者にされたり、アジアカップサッカーで南京での試合の猛烈なブーイングに面食らい、人のいい日本人も中国に嫌悪感を抱くようにあった。中国は中国でさらに小泉総理の靖国は絶対許さんといい、湖キントウなども殻に篭ってしまっていたし、最近では、ガス田も絡んだ領土線の問題で帝国主義の列強のようにごり押しする中、両国の関係は必ずしも薔薇色とは呼び難かった。しかし、安部首相の電撃訪問、さらに元来親中の福田政権の登場は、湖キントウに春には来日しようかなどと友好的になってきている。それが毒餃子の対応っぷりに現れたのだろう。中国の衛生局の対応は異例の迅速さで、また日本側は中国の調査団を受け入れ、毒混入は日本で行なわれた可能性についてもオープンなどこれまでの関係からしたら、どうしたの?という上出来だ。

いずれにしても、環境への取組で日本の技術は必須であるし、巨大な貿易相手である。日本は中国からの食糧輸入が17%もあり、またでっかい消費地としても魅力をまだまだ感じている。何せ両国の年間貿易総額など100兆円を越えている!!この結びつきは、やっぱり魅力なんだと素直に認めるというのが、毒餃子事件に対する両国の意思が表示されたということなのだろう。この意外な協力関係が続けばガス田も問題もやがて意外と悪くないところに着地するかもと楽観性をイギリスの新聞は読み取ったようだ。

日本からしてみると、中国は急成長を続ける脅威にも映るが、協力関係が上手く行けばよきライバルとして切磋琢磨でき、アジアとして共に発展を担う伴侶ともなる。今までの日中の関係は、一度も対等ではなかった。長い歴史で見ても、大国と小国であったし、近代化してからは、先進国と途上国であった。例えば、ドイツとフランスは歴史的な葛藤も乗り越えて協力関係を築いてるというが、これは両国民の経済・生活のレベルがほぼ同等というところが大きいと思う。日本と中国は、この意味で国民の所得や生活レベルが大きく異なるし、必然的に考えることも異なるだろう。液晶テレビでDVDを鑑賞し、ハイスピードネットでpcライフを楽しみ、週末はドライブし、ハイテク家電に囲まれた日本では当たり前の生活を中国でも行なっている人の数は相当増えているようだが、国全体ではまだまだごく一部である。ほとんどの人は工場などに勤め、アパートの一室で集団生活して食うや食わずなのだ。それでは考えることに違いが出るのは当然だ。中国の経済発展の恩恵が広汎にトリクルダウンされれば、民主化が進み、日本との距離はさらに縮まってくると思う。それには、農村と都市の猛烈な格差を少なくするべく社会的なインフラ整備を進める必要がある。まあ、先の長い話になるだろうけど。

Feb 5, 2008

アメリカ人も空気の話をするようだ

あまりアメリカの大統領選を深追いしてもしょうもないのだけど、アメリカリベラルの旗手としてはクルーグマンとロバート・ライシュ(クリントン政権時の労務長官で現在バークレーの経済学教授、アラン・グリーンスパンについて語ったブログの翻訳) だと僕の少ない知識では思う。この二人に共通してるのは卓越した経済学者であると共に文章がとても分かりやすいこと。小難しそうに見える政治や経済の話を 万人にコミュニケートできる能力の高さが抜群だということに尽きると思う。その同じリベラルでも大統領予備選の民主党候補の見方は違う。前提として、国民 皆保険の導入をはじめ福祉や中産階級以下に有利な政策をすべきという意見は同じなのだが、ライシュは、クルーグマンのオバマ叩きはちょっと行き過ぎだし、 そもそもよく見ると保険の提案の違いはそんなにないんだから、いずれにしても共和党候補者が勝つよりよほどましな政権運営になるんだからあんまり今の段階 で片方を叩き過ぎないようにと言っていた。クルーグマンの方ではやっぱりオバマの案は皆保険ではないしコストも割高で、ヒラリーの案の方が、そんなにかわらないコストで倍近い人間(1240億ドルで47百万人に対し1020億ドルで25百万人)を保険加入でき、少なくとも保険に関してはヒラリーがましだと言ってる。中割れしている場合でないってのはクルーグマンは百も承知だ。というのは、いずれにしても候補者が絞られてくると今度は共和党のサイドは人格攻撃を始めるからだ。その時に重要なのはそれに付き合うのではなく政策を論じることだということだ。少なくとも保険に関してはオバマよりクリントンが優れていると政策の妥当性を話すようにしているのだろう。

一方で、NYTのコラムニスト、フランク・リッチは、ジョンFケネディが大統領選を戦った時代と今を重ねて、アメリカがうすらぼんやりとした変化を求めていた空気が当時の状況とそっくりであると述べている。日本ではKYと か言って空気読めないなどと、間主観的な意思疎通を日本特有文化みたいに思っているが、どっこいアメリカ人も空気の話をしているわけだ。当時、アイゼンハ ワーという人気の大統領の後釜にニクソンが居て彼は政治的にも老練であった。しかし時代は変化を求めていた。ケネディがやるべきことは、なんとなくその期 待感に乗ってしまうことだった。つまりオバマも政治経験が浅く、黒人で新しい、なんとなく変化をもたらしてくれそうだというふわふわした空気があって、な んだかわからないけど乗っかってきてることだ。だからクリントン女史が「leap of faith(奇跡を呼ぶ)必要はなく現実的に戦う人間が必要だと強調したのは、ひとまず正しい戦略なのではとリッチは述べている。それはアメリカだけでなく日本もまさにそうだと思う。政策を地道に実行に移すこと。

とはいえ クルーグマンもライシュもリッチの言ってることもまあ僕からしたら対岸の話である。やはり日本の政治・経済をどげんかなってもらわな困るというのがある。 やっと最近、高橋洋一の「財投改革の経済学」を読んだ。近所の図書館で購入してもらったのだけど思ったより早く買ってくれてありがとう。この本の主張の柱 は3つあったのかと思う。

1、郵政改革つまり郵貯の貯金を主に政府や地方政府などに、コスト意識やリターン意識のないままに使わせていた資金を民間に活用 できるようにするもの。

2、隠れ資産の有効活用。

3、マイルドインフレを目標にした金融政策の実施。

細かなところは分からないし、突っ込みどころもあるの だろうけど、相当日本経済にとって好機を秘めているのだと思った。1に関しては、小泉総理というカリスマと竹中大臣というサンドバックを擁して実施に向け て基礎工事はすでに始まっている。

2については霞ヶ関埋蔵金の議論が多少出ているようには思う。財政再建は必須のものだし増税論議も出ているが、その前に やることがあるだろうというのは誰もが思うことだ。

3は、今の所、ほとんど動きがない。自民党の中川元幹事長や、竹中大臣がスポークスマンとして名目成長 率を高める必要があるという話を聞く程度だが、当の金融政策実行する日銀の中の人からこんな話をしているのを聞いたことがない。やはり今後の日銀総裁の人 事の行方が気になるところだ。ところでもちろん日銀の総裁の人事も要は政策の中身と実行力が大事だ。総裁の人事で、日本経済の行方のすべてが決まってしま うなんてこともないと思う。もしそうなら、このポストには野球のイチロー以上の高額の年俸で世界最高峰の知性を迎え入れるべきじゃないだろうか。

Feb 4, 2008

朝からブチキレ!! ポール・クルーグマン

Connection Accomplished:While most of the focus right now is on poor job creation, there are other disturbing trends in the US economy — for example, our noticeable lag in broadband access. But the Bush administration has an answer: move the goalposts, and declare Connection Accomplished. Seriously, this is disgusting. Declare that 200 kb/second is broadband; declare that if anyone in a Zip code has broadband so defined, everyone has broadband access; and then have the Commerce Secretary laud the president’s policies for creating this “success.”

The reality is that the failure of US policy to create effective competition in broadband access has, predictably, put us behind. One more achievement of the Bush administration.

近の米国経済の兆候でさらにうざいことは、ブロードバンドがコンスタントに遅れることだ。しかしブッシュ政権は、ゴールポストをずらして、コネクションは 達成した(イラクミッション達成みたいに)と宣言している。マジで、これはうざい!!200kb/sの接続をブロードバンドというなら、郵便番号をもつ誰 でもブロードバンドアクセスしているというようなものだ。それでも、通商大臣は大統領の政策がこの「成功」を生んだなんて声高に言うんだろ。

現実はブロー ドバンドアクセスに効果的な競争を与えるのに失敗したことによる予想できた失敗なのだ。ブッシュ政権のもう一つの輝かしい功績だ。

インドでのマーケティング活動としてのCSR―トヨタ

トヨタが最近、生産車台数が世界1を到達したというニュースが出ていたし、様々な側面でトヨタのプレゼンスは世界的に大きなものがある。アメリカのfortune誌の世界に影響を与えるリーダー25の一人に日本から唯一渡辺社長が選ばれていた。ちなみに1位はスティーブ・ジョッブス。

そのトヨタはプリウスの成功などで環境フレンドリーなよい企業市民というイメージを植えつけつつも、デトロイト州の排ガス規制に反対したりと確立したいイメージと行動が一致していないと指摘されてたりする。しかし、米国人には燃費の悪いピックアップは人気があるわけでGMやフォードも反対してたりする中での反対は、マーケティング活動そのものへの反対でもあり、日系企業が世界1を嫌った黄禍論として排斥する動きの一つかもしれない。

CSRといえばマイケル・ポーターがクラマーと一緒に戦略的CSRと提唱したように企業の戦略と社会の貢献が融合してなくてはならないことになっている。そういえばフォード社の創設者のヘンリー・フォードは、生産コストを大量生産によって下げ、従業員の給料を5ドルに上げ、大衆向けの車を従業員にも買えるようにした。これなど売上の拡大という意味もだし、まだ庶民の手から遠かった自動車を普及させる意味での理念としても合致していると思われる。

日本では高度経済成長期は、若い労働者を獲得すべく、中学卒業したての若者を工場労働者に囲い込んでいた。このような囲いこみを、グローバリゼーションのすすんだ昨今では、途上国で展開している。トヨタがインドで学校を作る目的は、インドにおいて若くて優秀な労働者を獲得するためでもあり、地域社会でトヨタの学校の認知度を高め、ブランド効果も高める狙いがあるようだ。これで必ずしも売上にすぐ直接結び付くわけでもないし、いずれにしても先の長い話になるが、人材育成・確保とCSRによるブランド効果と一石二鳥を狙っている。タイなどでも日本の自動車企業、企業主催による就学している学生の間でダンス発表会を開催している。学生に歌を作らせるのだが、その歌詞に必ず企業を持ち上げるようなフレーズを入れなくてはならないという多少エグイことをやりながらブランド浸透させている。しかし、この大会はタイ全土の子供たちに人気を博している様だ。しかも、このマーケティングを仕掛けているのは広告代理店ではなく、大手商社である。GHQが日本の子供を手なずけたような方法で途上国の子供たちを手なずけようとしている動きが日本のグローバル企業にも見られる。

企業が自社の戦力を育てる職業訓練校は日本にも存在しているしタイなどはすでに相当稼動している。研磨など精巧な技術をもつ技能工は若い頃からの訓練が欠かせないからだ。現地生産が当たり前のトヨタにはインドを次の市場の開拓戦力の視野の元に、インドの子供に教育を与えるCSR活動も入っているのだろう。

Feb 3, 2008

Experimental Philosophy Anthem

一つ前の記事で紹介されていたExperimental Philosophy Anthem
椅子ってよく燃えるのね。
曲がいい!

古くてもまだ使える肘掛け椅子―実験と哲学 クウェイム・アンソニー・アッピア

哲学の現在という感じの記事がNYTにあった。記事の作者のアッピアはギニア出身でオックスフォードで学んだ哲学者だ。実験哲学(experimental philosophy)といって、認識論や倫理の問題が脳神経学や生物学と共同で仕事をしたり、哲学者自身がマーケティングリサーチにように統計を取ったりとかつては肘掛椅子に腰掛けて瞑想し思考実験だけが専売特許だったのに、お外にでてフィールド調査する機会も増えてきたようだ。でもアッピアは、観察もよいが、旧来の沈思黙考する部分も大事だと、古ぼけた肘掛け椅子だけど必要だし役にも立つんだよと言って記事を締めくくっているのは、哲学はまだ死んでないんだと世の中に訴えたいんだろう。

The New New Philosophy

By KWAME ANTHONY APPIAH
Published: December 9, 2007

新計画を実施するか決断しようとしてる会社の会長がいると仮定しよう。導入によって利益も上がるし環境にも貢献するとなる。「環境にいいかなんかどうでもいいんだ」と会長が言ったとする「利益が最大化されればそれでいいんだから、計画を実施しようじゃないか」。この場合皆さんは、会長が意図的に環境支援をしたと思うだろうか?

では同じように、計画の導入が環境に悪影響を与えるとする。会長は環境についてやはりどうでもいいと思っており、利益追求すべき計画を承認した。予想どおり、利益は上がったものの環境には悪影響が出た。この場合、会長は意図的に環境悪化させたと思うだろうか?

あなたがどう考えたか知りませんが、ある調査ではわずか23%の人が、最初の状況で会長は意図的に環境を支援したと答え、2つめの状況では、82%もの人が、会長は意図的に環境を悪化させたと考えたようだ。このような興味深い非対称的な結果についてたくさん語ることができると思う。しかし、一番衝撃的なのは、この調査を行なったのが哲学者だということだ、また新たな哲学を考える材料の為に・・・・。

これは「実験哲学」として知られる活動の一部なのだ。実験哲学は、生意気にもプロの哲学者が自分自身を好意的に考えているとこに挑みかかっている。哲学者は単にデータ集めに慣れていないだけでなく、そのような作業をすることから距離を置いてきたのである。プロとしての得意分野というのは最上の純粋思考にあると我々は思い込んでいるからだ。生物学の同僚はPCR装置を駆使し顕微鏡スライド上でDNAを染めている。政治家学者は人口分布図で流行を掴み、精神学者はねずみと迷路を使用している。哲学者は、親切そうな姿で彼らに手を振る。我々も実験科学はとても重要だと理解しているが、我々は、結婚式に対面するカトリックの牧師のような、我々の支援が理論全体に威厳を与えるような役割を好む。哲学者は観察せず、我々は実験も測定も数えることせず、ただ思考実験だけを好む。しかし、鍵となるのは思考だ。それは数ある哲学協会でもっとも哲学らしい協会のアリストテリアン・ソサエティの会長が数年前に「肘掛け椅子の上で出来ることはなんでも哲学だ」と言ったことに現れている。

でもいまや私たちの狭い部落での話はもはや通用しなくなりつつあり、伝統的な哲学の問題について、人々がどう考えるのか、また私たちの思考実験についてどう考えているのか椅子から離れ意見を集めることに光が当たってきている。新たなムーブメントは(若い研究者には「x-phi」と呼ばれている)は、栄光を開拓するブログになっている。もちろんウエブサイトのことではなく、米国哲学協会の年次会議での特別な論文と発表のことだ。カリフォルニア大学サンディエゴ校とアリゾナ大学の学生と教員が彼らのいう実験哲学工房を設置したし、今やインディアナ大学は実験認識論工房に特化している。神経学も組み入れている。哲学の院生も、人がモラル問題を考えているとき脳で何が起きているのか理解しようとfMRIの脳スキャンの読み取り方をだんだん勉強している。(冷徹な計算からどんな判断が生まれるのか?扁桃体(恐怖を感じる神経核)と感情がどのように判断に影響するのか)スプリンガーという出版社は、神経倫理というあらたな論文誌をはじめた。これは単に倫理学が神経学にモノ申すというのではなく、神経学が倫理学に何を言えるかというものだ。(ニューロが、今やナノに移っていることにお気付きだろうか?)オンライン議論グループの院生たちは、どの哲学問題は「実験しやすい」のか協議しており、これは1970年代にどの計画は同性愛者やハイデッガーリアンに受けるのか決めるようなものだ。そうだった、この初秋に、「実験哲学への歌」という音楽ビデオがYouTubeに掲載されていた。映像では肘掛け椅子が燃やされていた。
クリップボードと質問票だけで本当に哲学を行なえるだろうか?そのようにも見える。チャペル・ヒルにあるノースカロライナ大学のジョシュア・ノブは、 この企業会長の二つの話を人々に聞いてまわった哲学者だ。(完全版は、私が彼の博士論文の査定をおこなったときに読んだ) 多分、皆さんは、会長の考えがどうであろうとその行動について非難すべきか判断したのではないだろうか。そして意図的な行動についてこそ哲学者は多くを語りたがるものだ。しかし、ノブ効果とも言うものが十分奇妙なことは、その行動が意図的なのかどうか、我々が善悪を判断するまではっきりしない点にある。

議論グループに参加している哲学者は、多くのライバルから何が起きているのか説明を受け、新たな実験の方向を与えられる。そして、実験が示されまた新たな議論が行なわれる。ソルボンヌ大を経たピッツバーグ大学の科学哲学者のエドワード・マシュリーは、ジョーという男がいて地域のスムージー・ショップに行き、店で一番大きな飲み物を注文するという話をしてくれた。ジョーは、メガスムージーが、特別な記念カップに注がれて販売されていると知っていた。でも彼はカップにはこだわりがなく、単にメガスムージーが飲みたかっただけだ。この場合、彼は記念カップを意図的に貰ったことになるだろうか?皆さんのほとんどは違うと答えるだろう。その代わりに、もしメガスムージーの価格が高く、彼が余計に金を支払わなくなると聞いていたら?その場合でもジョーは金額を気にせず、メガスムージーを注文することだろう。彼は意図的して高くなった分のお金を払ったことになるのだろうか?皆はそうだと肯定するだろう。マシェリーは、前もって予想される行動の副産物を恩恵にともなうコストだと納得していたら、それは意図されたものと取れると結論付けた。だから先の避難された企業会長は、より毒を流すことは利益より害悪だと受け取られたのだろうか。そうではないとユタ大学の哲学者は、違うフィールドテストでさらに思考実験して彼の議論を強化すべきと言った。

実験者がいろいろ手を尽くしたのが予想した結果だけになっても(実験哲学は今や哲学である)、彼らの努力はよい契機をもたらした。ウィトゲンシュタインは、かつて「今日の天気は素敵じゃないですか?」と主張しているにもかかわらず疑問文と呼ばれている*」 と言った。もし何かを確かめるために研究の提案をするなら、頭がおかしいか生意気だと思われるに違いない。哲学者は、常に素敵なくらいに自信に満ちて「これを言うのは当然だ」と言う能力があるようだが、実験がこのような我々の自信を灰皿に投げ入れてしまうだろう。
戦後の言語哲学でもっとも有名な議論は、ソール・クリプキが、長く哲学者を悩ませていた問題を提起したことだった。名前はどうやって人やものを言及するのか。(質問を広げると言語はいかに現実性を帯びることができるのか?というもの)バートランド・ラッセルの理論がそれに答えた。名前とは基本的に記述の圧縮表現のことであり、人やものを質問の形で明確にする。クリプキはそれに懐疑的で、名前は命名儀式(baptism)に関係した参照すると提案していた。かつて誰かあるいはどこかのグループが対象に名前をつけ、緩やかな歴史的連鎖を経た後、我々はそのオリジナルの指定を今貸りていることになる。

このことを理解するために、クリプキは次のような思考実験をおこなった。ゲーデルの理論は、実は同僚のシュミットのもので、ゲーデルはどういうわけか論文を手に入れ著者として誤って評価されていると想像する。「ゲーデル」を論文の著者の名前としてだけ知っている人には、一体全体これは誰のことになるのだろうか?ラッセルの参照の視点によると、我々は実はシュミットを参照していることになる。「ゲーデル」とは、単に有名な理論を編纂した人の短い名前にすぎず、シュミットこそがこの説明の答えに当てはまる創造者ということになる。「しかし、私にはそうは思えない」「我々は単にそうではない。」とクリプキは異論を唱えた。

実験者は「我々」とは誰のことなのかい?と質問したくなる。先日マシェリーに導かれた哲学者チームがクリプキと同じ問題を二つの学部生グループに示した。一つはニュージャージーの、もう一方は香港からの学生だった。アメリカ人学生は、クリプキが明らかにしていたことに答えようという傾向があった一方、中国人学生は、古い指示理論(*ここで古いとは、クリプキが言うような名前が固有名を指示するのではなく、大体その人や周辺を指示していること)に同意する直感を得ていた。これは多分、我々西洋の個人主義ではシュミットの名前をこの場合の答えとすることは、集団思考をする東アジア人には共有されなかったということだ。これはどういう説明であれ、あまり心地のよい結論ではない。「我々は単にそうではない」。これは多分、ラトガースとプリンストンの大学の間で分裂することだろう。地球の反対側では(我々が肯定しないことも)肯定されるのだ。これについて哲学者はどういう対処をとるべきだろうか?

私にはよくわからない。というのはここに指示理論に関して問題がある。クリプキの考えたものと彼が挑戦している二つのバージョンだ。いろんな哲学者がさまざまなことを考えている。双方とも直感が正しい答えを決め、もし正しい答えがあるとするなら、頭数で決められる必要はない。実験哲学の最たる仕事は、実際に実験をしなかったとしても価値があり提案すべきものがある。(「ある状況では先の企業の会長は意図的に環境にダメージを与えた、一方で・・・」「というのが自然かもしれない」とノブは書いたかもしれない) Xphi(実験哲学)は、例え隣の会社で使われても、我々は、正直であり個人的な直感にバランスをとるようにと教える。しかし、実験はたとえ、哲学的議論を色づけるにしても、解決はしないというのが私自信の経験による観察だ。
例えば、意図を、興味深い位置とづけるのは有効だろうか?そして、それはなぜだろう? (ノブ効果というのは煩わしいものなのか、それとも注目に値するのか?) 皆さんは、もっと調査をして問題を明瞭にすることができるかもしれない。しかし、見つけたものを観察するという仕事が残っており、それをぼんやり見るだけでは観察ではない。常にクリップボードと質問票やMRIを常に脇に置かなきゃいけないときがあるのだ。物事を整理するために、他に強力な道具が必要だ。一つはそこにあるではないか。ばねは少し弱まって、クッションも疲弊しているけど、でもまあ気にしないで。その肘掛け椅子はきっと役に立つよ。


*ウィトゲンシュタインの主張を疑問文で呼んでいるというくだりは、哲学探求のアフォリズム21を参照した模様。
http://users.rcn.com/rathbone/lw21-30c.htm
日本語翻訳 by ミック氏

*指示理論の新・旧の定義は
http://www.qsmithwmu.com/marcus,_kripke,_and_the_origin_of_the_new_theory_of_reference.htm
"The New Theory implies that r;- many locutions (e.g., proper names) refer directly to items, which contrasts with the traditional or old theory of reference, which implies that names and relevantly similar locutions express descriptive"

Feb 2, 2008

金髪美女はいまだ健在

ウォールストリートジャーナルは、ちょっと前まで記事が有料だったような気がするが、どうやらルパート・マードック氏のニューズ・コーポレーションが買収したせいか無料化に進んでいるようだ。ところで現在の市民ケーンならぬメディア王のマードック氏は、もともと豪州出身。そしてその妻は中国生まれの中国人。妻のウェンディー・デンは、40歳近く下だ。
どうでもいいのだが、マードック氏が亡くなれば、この妻にアメリカメディアキングの権利が行くことになるわけだ。アメリカのブラックストーンのシェアも中国の国富ファンドが買い占めていることから、アメリカの資本とメディアの中枢に中国が絡むことになるのだなと今後日本にとってどう影響してくるのか考えてしまう。

そのウォールストリート紙で、ハイクラスなファッションショーで、同じようなルックスのモデルばかり使われるということに触れられていた。左の写真はカルバンクラインのショーの集合写真。見事に同じようなルックスばかり。

世界がグローバル化して多様性というのが言われても最先端のファッションショーでも以外に有色人種のモデルのキャストが少ないのは結局、デザイナーが望まないからだそうだ。なぜ有色人種ではないかというと、どうもデザイナーにしてみると、服が主役であって服以外の要素が目立つことを望まないというもっともらしい理由がつけられている。つまり、白人が標準だという見方を肯定しちゃっていることになる。アメリカの現実社会を見ると、いろんな肌と人種が街を闊歩しており、ハイファッション空間では、現実社会を反映しないことになる。

アメリカに住んでいたとき、スパニッシュ放送を見た時のことを思い出す。メキシコなどラテン国はアメリカ同等いやもっと有色人種の比率が高いのだろうが、出演者はほとんど白人だったということだ。現実にメキシコの街角で見かける人と、テレビに出てくる顔の人種のアンバランスは屈指のものがあった。だんだん一般のマスメディアはプリント媒体やテレビでは現実を反映しつつあるけど、ハイファッションはまだ欧州貴族の価値観が暗黙の内に反映されているのだろう。アメリカの大統領選では黒人や白人の女性が登場しており。ま、でもブッシュ政権はじめ保守派の台頭に抵抗する変化の政策提案は、白人男性であるエドワード氏の提起によるものが大きいようだが・・・。

フリーランステロリスト―エコノミスト誌



How jihad went freelance

The Economist 1/31/2008

テロとの戦争はアメリカの財政を逼迫し、日本においてもインド洋における給油をする・しないで国会を紛糾させていたが、実際アラブのテロリストたちがどういう人たちなのかという分析について日本ではあまりみたことがなかったと思う。エコノミスト誌の記事に、実はアルカイダのジハード(聖戦)の呼びかけにテロリストとして加担する人たちが、貧しく、抑圧されているわけでも、特に思想洗礼を受けたわけでもなく、教育もあり中産階級出身で、妻や子供もいる人が、友人や人間関係の中で自発的にテロに加担するようになるのだという。

このいわば恵まれたアラブ人さえ、聖戦に加担するようになるまでには4つの過程を踏む。まず、イラクやパレスチナやチェチェンなどどこでも、アラブ人の困難に対してのモラルの暴挙が引き鉄となる。二つ目、イスラムと西洋の戦いの中に、モラルが役割を果たしている。3つ目、ローカルとグローバルが混乱している。個人的な偏見や失業の経験を地政学的な不幸と重ねる。最後は、個人がテロリストセルに参加する。セルでは、代理母的な役割を果たし殉教への用意をさせる。ほぼすべてのアラブ人が3つ目の段階まで共有するが、最後に踏み出すのはほとんどいない。

エコノミスト誌の前回の7月の特集(山形浩生氏によるの抄訳と解説)の際は、教育もあり普通の家庭出身の子息をジハードへ誘引に、ネットサイトがその思想を吹き込むのに貢献していたからという見方だったし、対抗するには対抗プロパガンダを体系的に推進することとあったが、今回の記事では、フィラデルフィア拠点の外交方針研究Marc Sagemanの新刊 Leaderless Jihad: Terror Networks in the Twenty-First Centuryあるように、最近の自爆テロリストは、主戦場が欧州に移っているのだが、オリジナルのアルカイダとのつながりがほとんどなく、アルカイダ的な社会運動のような動きを見せているとのこと。対抗思想とは、民主主義的な思想になるのだろうけど、テロに加担している人たちが自分たちは民主化の為にジハードに加わっていると思っていたら、何の意味もないだろうからだ。これは、ブルッキングインスティチューションのテロ対策専門家のダニエル・バイマンも共通しているようだ。

バイマンの処方箋では、アメリカは軍事、思想船、情報、国防、内政改革の5つの項目に尽力すべきだと。ただ彼の処方箋は分かりやすいらしいのだが、イスラエルのような標的殺戮を支持するものだと非難する向きもある。バイマン氏の処方箋は特にテロ対策の専門的な議論が多く一般人受けはしにくいだろうとのこと。

テロ専門界は概して現在的なイスラムの人が何を考えているのか無知である。広い国際的な文脈の中で、イスラムの政治がどう変化しているのかということに関しては、ジョージ・メイソン大学の助教授peter madaville“Global Political Islamがアルカイダのグローバルなジハードに執着している中でそれを越えた視点を提供する意味でお勧めであるとのこと。

参考
孤立に始まり抹殺に至る なぜ若者は自爆テロ犯になるのか――フィナンシャル・タイムズ

http://news.goo.ne.jp/article/ft/world/ft-20070711-01.html
こちらは、ロナウジーニョになりたいといったような世間の注目を集めたいが為にテロに走るという見方。

Feb 1, 2008

保守派からもブッシュの財政無責任は問われている

Legacy of Deficits Will Constrain Bush's Successor

Soaring Costs Threaten to Impose A Harsh Reality

By MICHAEL M. PHILLIPS and JOHN D. MCKINNON

左翼系のNYTはブッシュ政権に常に批判的なのだけど、保守派のウォールストリートジャーナルもブッシュの財政無責任に批判的で、次の大統領はいずれにしてもこのつけに苦しむことになると言っている。ただ、左派と違うのは、減税の影響を金持ちへの減税だったということは指摘してないし、むしろベビーブーマーの退職にともない増加する医療費や年金支出による財政赤字が増大したという視点の違いがある。中東戦争の戦費の試算も、保守派のヘリテッジ財団の試算を引用して、今年の9月いっぱいで8000億ドルと、スティグリッツ先生の試算の2兆ドルの半分以下と、戦争への正当性の見方が戦費の試算を大きく変えてしまっている。左派の見方だと、この戦費で皆保険や教育支援、インフラ整備が出来たということになるが、保守派は、そんなに戦費調達による財政赤字の影響はないという見方なのだろう。いずれにしても、共和党予備選のフロントランナーを走るマケイン氏すら、裕福な人の医療費を減らすなど多少は財政面のこともふれ、ともなくブッシュと距離をとる作戦に出ているようだ。

エドワード氏の功績―ポール・クルーグマン nyt 2/1/2008

民主党第3の男ジョン・エドワード氏が民主党予備選から撤退した。日本ではほとんどカバーされることのなかった氏だが、アメリカでも似たようなものだった。しかしクルーグマンはエドワード氏の撤退は彼の政治としては敗北だが彼の政策は勝利したといっている。民主党の主な改革のヘルスケアや環境への取組の政策的な土台を最初に提案したのはエドワード氏だからだ。エドワード氏は白人男性で、黒人や女性の候補に比べると一般受けする「変化」イメージに欠しく見えるのかもしれない。しかし、実質的なプログレッシブの考え方変化をもたらしたのはエドワード氏だということだ。いずれにしても民主党の誰かが大統領になる鍵は、共和党の人格攻撃泥辻試合に付き合うことなく、ヘルスケアや環境問題の政策に焦点を絞ることにあると忠告している。

The Edwards Effect by Paull Krugman

ジョン・エドワードが大統領選から離脱した。常識的な政治のスタンダードから見ると彼の予備選はやり残しがあるように見える。

エドワード氏には、現在の政治と違うのは理念に基づいて予備選に立候補したということだ。たとえホワイトハウスへの道は閉ざされたとしても、彼の考え方は勝利を収めている。残りの二人の候補者は、エドワード氏が構築した土台の上に立っているからだ。

このエドワード効果を考えてみよう。

2007年の初頭、民主党候補者は力強く明確な考えの下予備選を始めた。すべては2004年にジョン・ケリーが負けた後だ。

2008年の違いは、エドワード氏に大いに感謝すべきだ。彼が分かりやすい政策提案をするよう習慣づけ、民主党での会合では彼のライバルたちも多かれ少なかれ同じようにせざるを得なくなったからだ。

特に2月に紹介されたエドワーズのヘルスプランについて言及しないわけにはいかない。

エドワードのプランが出てくる前、国民皆保険の支持者はどうやってそれを導入するかで意見が分かれまともな議論の端に着くことすら困難だった。ある支持者は、単独支払制度―メディアケアを全ての人にとして知られている―は政治的に導入不能として却下していた。また民間保険を改革し単独支払を支持する人たちは、民間保険制度の効率の悪さに将来性がないことに気付いていた。

ヘルス改革の導入法に同意ができず、1993-94年の記憶に新しい失敗もあって、民主党の政治家は、皆保険は遠い未来のおぼろげな夢として話題を避けてきた。

しかし、エドワードのプランは、丸いものを四角(目からうろこ)へするものだった。民間の保険を使いたい人と、そうでない人には全員政府提供のメディケアタイプの保険をオプションにする、つまり官民の競争によって長年かけて単独支払制度を導くのではとエドワード氏は明らかにした。また彼はこの券で改革には増税もやむなしというタブーも破った。

突如、国民皆保険は次期政権の可能な夢へと変わった。数ヶ月して、予備選のライバルたちも、党の考えを理解し夢を共有しエドワードプランを模倣した。そして次の大統領が主要な健康改革を本当に行なうなら、これまでの政治の風景を一転させることは間違いないだろう。

同様に、これほど大々的な例ではないけれど、主だった問題の変化も後に続くだろう。例えば、エドワード氏は、昨年の3月、気候変動に対して本格的に取組む提案を行なったが、これは現時点で、バラク・オバマやヒラリー・クリントンはさらに強力に排ガスや温暖化ガスを制限させる提案につながっており、少し前まで誰も予想してなかったような内容になっている。

不幸なことにエドワード氏は、彼自身の政策提案をライバルたちに喜んで模倣させたせいか、彼自身が、ライバルと明確なちがいがなくなってしまった。ライバルたちは、資金的に圧倒しているし、大きなメディアの注目も浴びていた。本NYタイムズでさえ、エドワード氏のカバーはほとんどなかった。

だからエドワード氏は、議論には勝ったが政治には負けたといえる。

エドワード氏の支持者はどこへ向かうのだろうか?それは誰もわからない。

確かに、オバマ氏は「変化」の候補者としてたちあがった。しかし、彼の変化は今までの同じような変化に過ぎない。エドワードは、愚直にポピュリスト予備選に立候補し、オバマ氏は党派性を超越できるという演出をした。そして最近の共和党の経済エリート主義にとって、ポピュリズムはきわめて党派性を帯びている。

オバマ氏もポピュリストテーマに沿って予備選を戦おうとしたのも事実である。彼はそれほど説得力がなく、エドワード氏を支持していた労働者階級の支持者の票はオバマ氏よりクリントン氏に流れるだろう。

さらに、予備選の考え方については、ヘルスケアの主要な考え方は、多かれ少なかれクリントンプランはエドワードプランに類似している。オバマプランは、国民全員をカバーすることがないのでその意味では弱い。

一つ明確なのは、どの候補者がノミネーションを取り付けようとその勝利の機会は、ほとんどエドワード氏が予備選に持ち込んだ考え方に拠っている。

個人的なアピールは効果がない。共和党は政敵を個人として悪魔に仕立て上げるのがとても得意だ。クリントン氏は、いままでにずいぶんその洗礼を受けたが、オバマ氏はまだそれほどではない。しかし、もし彼がノミネートされたら、保守派の連中が彼の人格的な深い問題を見つけ出すのがどれだけ早いに注視すべきだ。

しかし、民主党員は政策的な共和党との違いに焦点を絞っておけば、調査では彼らに大きなアドバンテージがある。そして、いずれにしてもエドワード氏に感謝することになるだろう。

マンキュー先生税制方針の4つのゴール

スティグリッツ先生は、失業者や中低所得者と教育などへのインフラ整備を財政支援によって行なうことが刺激策になると言っていたけど、マンキュー先生の場合は、そもそも財政支援による刺激策には反対のようだ。税制の4つのゴールを設定してわかりやすく説明してくれている。

Greg Mankiwのブログから

Four Goals of Tax Policy

財政支援策について広い観点から議論するのが有意義だと思う。

税制の評価や政策の分析を行なって税制をデザインするときすくなくとも4つのゴールを念頭に置く必要があると思う。

1、 効率性:税制によるインセンティブへの影響はできるだけ小さくすべき。(外部やピグー税をインセンティブの修正をする際に使う)

2、 世代間のバランス:未来の世代に借金を背負わさないためにも、税制は十分な歳入を得るべき。

3、 平等:税支払い後の収入の分配ができるだけ平等になるようにすべき。

4、 安定性:税制は経済の完全雇用を維持するべき。

最近の財政支援による議論は、これらの目標とトレードオフの関係になる。経済刺激策は、特にゴール4を目標にしているが、主にゴール1と、2も少し犠牲になっている。効率性が犠牲になっているのは、効果的な累進税を引き上げることになるのと、政府の負債を増やし未来の税の増加となりインセンティブを削ぐからだ。もちろん、このフェーズによって、ゴール3を達成することになるわけだが。これこそ古典的な効率性と平等のトレードオフになる。

どのゴールに重きを置くかの政策分析によって意見の相違が生まれる。財政支援策の支持者は、ゴール4に重きを置く。財政支援に批判的な人は二つに分かれる。1つは、ゴール4を軽くみるのは、そもそもケインジアン理論に懐疑的だから。2つ目は、ゴール4は原理的には有効だが、今のマクロ経済の状況では、安定性は金融政策に任せ、財政政策は、ゴール1と2に主張したほうがよいと考える。私は、後者だ。

スティグリッツ先生の(人間を幸福にする)経済刺激策 2008/01/23

How to stop downturn by Joseph E. Stiglitz

NYタイムズ論説欄

アメリカの経済は、大きな停滞を迎えようとしている。不況になる(半期のマイナス成長)かどうかが問題なのではなく経済が潜在力を下回り失業率が上昇することが問題だ。経済刺激策が必要だが、すでに抱えている財政赤字をいたずらに増やすのではなく、1ドルも無駄にせずに行ないたい。適度な処方箋は数ある中でも即座に支出に結びつくもので、経済の急激な落下を食い止めなくてはならない。

失業保険制度の強化から始めるべきだ。なぜなら失業者は受け取ったお金をすぐに使うからだ。

政府は土地の価値が下落しすでにピンチを感じている州や地方政府を支援するべきだ。特に地方は支出を切り下げることで対応しておりこれは不安定要素になる。政府は主要なインフラの建て直し支援という形で行なうべきだ。

政府による教育予算の支援は、エネルギー節約や排気量の削減と同様、経済を短期的にも強化し、長期的な成長ももたらすだろう。これらのよく考えられた支出プログラムは効果が出るまで時間がかかるように見えるが、今回の停滞は、かつての停滞より回復までに時間がかかるように見える。住宅価格はまだまだ下げ始めたばかりで、正常化するまで長くかかるだろうし、もし国民が今までより貯蓄を増やせば、消費はしばらく停滞したままだろう。

ブッシュ政権は今までずっと減税(特に富裕層へ)をどのような問題の解決策にもしてきた。これは間違いである。減税は一般的にアメリカ経済に現れたように過剰な消費をもたらす。しかし、中低所得者は過去7年間苦しんできた―現在の家計収入の中央値は2000年よりも低下している。中低所得者へ税金還付すべきだし、しかも即効性が高い。

破産についても手を打つべきだ。法整備を進め野獣的な金貸しの犠牲になった人たちに、住宅を手放さないようできるならば経済刺激となるだろう。しかし、これにだけ支出をかけてもいけない。やりすぎは投資家への過剰な支援になり、彼らへの納税者の支援は必要ない。

2001年に、ブッシュ政権は不況を口実に高額所得者の減税を行なった。お陰で彼らはここ25年かなり恩恵を受けた。減税は経済刺激ではなく彼らの為に行なわれた。経済を流動化の為FEDはかつてないほど利下げを強要されていたが、これが無謀な貸し出しを生んだ。これで米国経済は借りた金と時間で動くようになったのだ。

同じような日が再びやってきそうである。しかし今回は刺激策が本当に経済を刺激するようにしなくてはならない。問題は、大統領や議会が党派を越えてこの問題に取組むかどうかである。

Jan 31, 2008

ジョン・アレン・パウロス-Irreligion

john A paulos氏の新刊が今年の1月13日に出版されて第一章をNYタイムズで読めるみたいですが、すでに「数学者の無神論」として翻訳が出てました。 


それに同じくNYタイムズの角谷美智子(michiko kakutaniはアメリカ生まれのアメリカ育ち)が書評をつけていて、神の存在証明について数学者による反証を行なっていると。ただパウロス自身が言うほど、数学音痴や無知に分かる代物でもないし、最後には、リチャード・ドーキンスの“The God Delusion” (2006)やクリストファー・ヒチェンなど“God Is Not Great: How Religion Poisons Everything” (2007)など、知的無神論・不可知論本の流行に乗じた一冊とばっさり切り捨てています。まあ、この角谷氏は、その昔、昨年亡くなったノーマン・メイラーにも「カミカゼ」書評家として怖れられたり、ハリー・ポッターを発売前にネタバラシして著者に呆れられたり個性的で独断でばっさり斬ることで有名なので、そういうものかとも思います。

Jan 29, 2008

企業探求―ロバート・ライシュのCSR批判はもはや古い?

エコノミストの昨年の2007年の9月の記事に、supercapitalismを出版した頃のロバート・ライシュ氏によるCSR批判に対する批判を行なっていました。ライシュ氏といえば、米国左派期待の星なんですが、CSRは企業が市民の変わりを勤めることで民主主義を弱めるという批判を加えています。The Economistは、企業のリーダーも、ライシュ氏の言う、環境や、教育、ヘルスケアなどへの政府に取組に反対しているわけでもないし、企業にとってもそこへ取組んでいくことは長期的な利益拡大のチャンスとなるから、批判は適当ではなく、もはやCSRは是非ではなく、どう焦点を絞って取組んでいくのかということが常識となっていることを言っています。マイケル・ポーターとマーク・クラマーの「競争と社会」で言う、CSR活動を競争力の源泉とする方向に確実に向かっているのだと思います。


In Search of the Good Company


ここ10年で「企業の社会的責任」が、先進国企業の役員会では常識となり、途上国でも浮上してきている。大企業の多くは、職場の多様性や人権や環境問題といろんな方針を設置している。CSRへの批判は、ミルトン・フリードマンの「企業の社会責任は利益を増やすことだ」という議論を踏襲する自由市場論者のものだ。しかし、CSR批判の議論に新たなひねりを加えたのは、最近出版された左翼の旗手であった。

新刊本「Supercapitalism」で、ロバート・ライシュは、CSRは、民主主義を弱める危険があるという。ビル・クリントン政権で労務長官を歴任し、現在カリフォルニア大学バークレー校の教授は、社会問題は政府が扱うものであって企業にはない。グーグルやウォルマートがよい企業かなどは意味がなく、政府がルールを設置し企業の競争を促すことで、利益を最大化することは、社会的に利益になるという。

CSRが企業の利益を増加させるというのはナンセンスで、スターバックスがエコパッケージにしてコストカットしたことや、ウォルマートがパート従業員に保険を提供し始め、定着率が上げたが、これを「社会的責任を果たしている企業と認める」なら、単に利益を伸ばしている企業はすべてそれに当てはまる。というのは社会への利益にもなっているからとライシュ氏は言う。

またCSRがよくないのは、CSRによって政府が取り組むべき問題をやらなくてもいいと世間が思ってしまうことだ。堕落した政治家が、自分たちの改革の無能さを棚に上げ、企業の不祥事を指摘するだけになってしまう。企業ロビーストの影響が強く、規制強化に失敗していることが、不祥事の温床となっている*

CSR支持者も企業の腐った献金について、ライシュ氏と同意するが、ライシュ氏の対策は、彼らと逆で、市民と政治家が正しいことをしようとするなら、企業になんか頼る必要がないというものだ。

CSRの支持者は、企業は自己利益に反することをすべきでないと考え、短期的で視野狭窄な儲けなく、長期的な利益こそ本当にすべきことだと言う。しかし、ライシュ氏にはそれは「賢明な経営」であってCSRではないという。しかし、CSRは従業員のやる気を高め、ブランド力を強化し、社会に恩恵をもたらすのは事実。社会的なコンテキストを意識することで、新たな製品やサービスも生む。プリンス・オブ・ウェールズの国際ビジネスリーダー・フォーラムのジェーン・ネルソンはこのような機会を超短期利益の前に見逃すこともないと言う。

ライシュ氏は、第二次大戦後のアメリカが「それほど黄金時代」ではなかった時代は、企業はより社会的に責任をもっていたと、好意的に振り返っている。企業リーダーが、今とは違い、経済成長をもっと平等に分配すべきと考えていた。アメリカの大企業は、贅沢な寡占状態であったのは、社会責任などを賄えたが、現在のような、厳しい世界競争に晒された「超資本主義」では、そんな余裕はなくなったという。

しかし、マッキンゼーのレニー・メンドンカは、戦後のビジネスリーダーは、利益を追求するには、世界経済を立て直し、社会契約を新たにすることだと考えていたいという。同様に今は、企業の長期的な利益追求には、気候変動や教育制度の不備などを解決することが重要だし、そのモチベーションは政府よりも高い。実際アメリカでは、ビジネスリーダーが教育や、気候変動や、ヘルスケアなどへの政府の取組は短期的なゼロサムゲームではないと支持が高く、従ってライシュ氏の好みとそんなに異ならない。

ライシュ氏の本は、批判をたくさん加えているが、CSRに取組んでいる人たちにはあまり意味がない。「CSRの是非を問う時代は終わり、今や、特に何を、どうやって行なうかが問われている。」という方へすでに移っているからだ。

*ライシュ氏の企業ロビーストへの見解は、http://blog.goo.ne.jp/ikeday_1977/e/9e77b157180132088c52ca4b5ca8f336 ケネディ・スクールでのライシュ講演を聴かれた方がブログで詳しく説明しています。