Blog entry by Robert Reich 2007/12/31アラン・グリーンスパンを形成した世界観には二種類ある。ルードビッヒ・ヴィトゲンシュタインと論理実証主義が土台となった経験主義と、哲学者・社会批評家のアイン・ランドへのリバータリアニズだ。
グリーンスパンの賞賛すべき伝説は前者にある。標準的な経済モデルでは、経済が年2.5%以上の速さで成長し失業率が6.5%以下に低下した結果インフレ懸念が浮上するとされているが、1996年の春までに米経済は、年率6%で成長し、失業率が5.5%以下に低下し、グリーンスパンたちは、景気のペースを鈍化させる必要があった。しかし、経験主義者のグリーンスパンは、経済状況が1970年打や80年代とは異なると見ていた。「イノベーションの進化で、インターネットやe-mailが当たり前のものへと変化した。今までにない状況に歩みを進めている…」と彼は自伝に記している。「教科書の戦略では、政策金利を引き締めるべきだが、テクノロジーブームを優先的に考慮すると、何もしないことが得策となった。生産性の問題だ。デスクトップコンピュータやサーバーやネットワークやソフトウエアなど、今までに比較にならないほどに巨大ビジネスになり、ハイテク製品へ資金が流入した。生産性は本当に加速していた。だからインフレの懸念はなかった。」
グリーンスパンは、連邦準備委員会で政策金利を上げないよう説得し、歴史的となった。「切羽詰まって金利を上げず、戦後最長の経済成長を明確にした」失業率は最終的に4%まで低下し、需要が非熟練労働者を吸収し、格差は短期的に収縮した。ビル・クリントンは、1990年のブームを起こしたとして評価されているが、実際は、グリーンスパンが、米国経済がハイテクブームに沸き、過去の経済モデルが通じないことの指摘に躊躇しなかったことによるのだ。
しかし、グリーンスパンの最悪の伝説は、二つ目の思想に源がある。アイン・ランドは、個人主義や覚醒した利己主義者に徳性を見出し、集団的な努力を軽蔑したが、グリーンスパンはランドに傾倒していた。特に、あまり恵まれてない人への救済効果について特に疑わしく思っていた。「レーガンが魅力的なのは、愛の厳しさを教えることは、個人・社会の双方にとって役に立つと明確に説明したことである」と言っている。政府による虐げられた人の支援に否定的だと意味している。
1992年のビル・クリントンは、ある意味レーガンの犯した間違いを修正するために当選したようなものだ。クリントンは、国民皆保険や急激に変化する経済環境に適応できる就業訓練や各種の支援、国家規模の道路、橋梁、港湾の修理など、何年も無視されてきた問題に取り組むことを約束していたが、政権発足時、財政赤字は彼の野心を削らなくてはならないほどに膨らんでいた。皮肉にも、負債は、ロナルド・レーガンの減税とおもに軍事費の増大によって膨張していた。グリーンスパンは、レーガン大統領の最後の年もFEDの総裁であったが、自伝には、レーガンに赤字の拡大に警鐘を鳴らしたとは書かれていない。だから、レーガンの行った支出による財政赤字は「野獣を飢えさせ」、結果的にクリントンのような次に来る民主党の大統領に、虐げられた人々への支援を減じるよう提案させる。つまり、グリーンスパンはレーガンや政権の取り巻きに同意していたといえる。
次の質問は、クリントン政権誕生時、どれだけの赤字縮小が必要だったのか、そして、その結果、当初のクリントンの要綱はどれだけ削られることになったのかということだ。グリーンスパンは、クリントンに赤字解消の為に全てを犠牲するように強制した。「未来への架け橋として、大統領の出立は、長期的な悲劇を取り除くことにある」と。グリーンスパンはクリントンに直接言わなかったが、彼がレーガンの失策のつけを払う嵌めになっていると自伝には正直に書いている。これは共和党によるまったくの筋書きとおりだ。「レーガンは、クリントンに借り、クリントンはそれを支払わなくてはならなかった。」グリーンスパンのクリントンへのアドバイスは、約束と脅威であった。もし、クリントンが負債を減らせば、グリーンスパンは、金利を下げ経済の堅調を約束した。これが「1990年代の後半の状態であった…見た目はすこぶる堅調」。これはクリントンの再選に貢献した。しかし、もしクリントンが、負債圧縮を行わなければ、グリーンスパンは金利を下げなかっただろうし、経済は足を引きずり、クリントンの再選を脅かすこととなっていただろう。グリーンスパンは「1996年の大統領選挙は、忘れることができない」と語る。クリントンは再選されたが、グリーンスパンは銃を彼の頭に突きつけていた。「選挙公約を果たすため支出のかさむ政策実施か支出削減計画か、黒か白で、双方を満たすことはできなかった」。私(ライシュ)も含めたクリントンのアドバイザーは、グリーンスパンの望むように予算を圧縮しなくてはならないとは誰も信じていなかったし、そうするとなると、クリントンの選挙公約をほとんど破棄しなくてはならないと考えていた。グリーンスパンが言うように「ホワイトハウス内での反発も広がり、政権中枢は、ウォールストリートと反目する公約を実施しようと躍起だった」しかし、グリーンスパンだけが銃を持っており、ウォールストリートと彼だけが勝者となった。
経済ブームが進むにつれ、クリントンの選択は有効度を増したように見えたが、実際は、グリーンスパンの権力を確かなものにしただけであった。低金利は少なくとも短期的に望ましい効果を発揮した。経済は伸展し、クリントンは再選を果たした。数年後結果的に、税収は爆発的に伸び、財政赤字は消失し、ブッシュ政権が誕生するまでには、大きな財政黒字を計上していた。アメリカはここ数十年来で初めて、ヘルスケアや、教育や就業訓練や、国家インフラ修繕などを賄える源を獲得したのだった。しかし、グリーンスパンは政府が計画を実行に移すことに反対していた。彼はその代わり減税を支援し「恒常的な黒字は、赤字の経常化と同じく不安定である」とし「支出を増額か減税すべきだが、支出を一度増やすと減らすことの困難さ危惧しているが、減税には問題はない」とした
グリーンスパンは、2001年議会の公聴会で減税を要求したが、ジョージWブッシュの行なった巨額の減税のメリットはほとんどが富裕層にしかなく、彼の政治的な支持層獲得に大きな役割を果たした。ブッシュ減税は、国富を溶かし、財政総黒字を数ヶ月で失わせてしまった。グリーンスパンは、特にブッシュ税制を支持したわけでないと書いてるが、それは疑わしい。ブッシュの提案は、当時唯一考慮され、新大統領として経済問題の中心にすえていた。そして、議会もメディアもグリーンスパンが証言した際、活況を呈していた。グリーンスパンは、彼の証言が、ブッシュの減税に支持をしていると認識されることを知っていたに違いない。彼は、ワシントンで数十年過ごし、首都がどう動くかよく知っていたはずである。「私の発言が政治的な意味合いをもつようになるなら、私は辞任する」。クラウド・レインがハンフリー・ボガードを真似ていたのを、さらにまねて、彼は後に妻にそう語っていた。「おやおや、首都に政治が存在していたよ」確かに、グリーンスパンは「法制化への影響力には楽天的であろうとしていた。たしかに黒字を減らす効果は危険になるまで上がっていた。」
グリーンスパンにとって「危険」とは、長期的な視点での悲劇的な問題に取り組む機会を見逃すことである。長期発展とは、ビジネスサイクルの上昇や下降を超越して、中流や下層の国民が生活を向上にも取り組むということだ。新たなグローバル経済下、民間投資が最高のリターンを求めて世界のどこでも行くようになり、国家経済の唯一考慮すべきことは、人に対して特別であり続けることで、教育、健康やお互いを結びつける交通や情報制度などに力を注ぐべきだ。これらは、長期的な生産性の向上をもたらす。しかし、グリーンスパンのリバータリアンの考え方が、仮に2008年に民主党が政権を取ったとしても、必要なことを実施するだけの予算をすでに霧消させてしまっている。アメリカの幼児・初等教育制度は低所得者家族の師弟に必要な予算がなく、数千万人の国民は健康保険に未加入で、数千万が現在加入している保険代を賄えなくなるに違いない。アメリカのインフラは経年劣化がひどく、昨年7月、1914年製の蒸気パイプがニューヨークシティで破裂した。翌8月、ミネアポリスで設置後40年の橋が崩落し数人の運転者がなくなった。最後に、これらのすべて差し置かれたことにより、格差がますます広がっている。
アラン・グリーンスパンの経験主義は、もっとも長期にわたる経済拡大でアメリカに大きく貢献し、金融政策の歴史を書き換えたが、アイン・ランド型のリバータリアンとしては、国に致命的な傷を負わせた。
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