Feb 3, 2008

古くてもまだ使える肘掛け椅子―実験と哲学 クウェイム・アンソニー・アッピア

哲学の現在という感じの記事がNYTにあった。記事の作者のアッピアはギニア出身でオックスフォードで学んだ哲学者だ。実験哲学(experimental philosophy)といって、認識論や倫理の問題が脳神経学や生物学と共同で仕事をしたり、哲学者自身がマーケティングリサーチにように統計を取ったりとかつては肘掛椅子に腰掛けて瞑想し思考実験だけが専売特許だったのに、お外にでてフィールド調査する機会も増えてきたようだ。でもアッピアは、観察もよいが、旧来の沈思黙考する部分も大事だと、古ぼけた肘掛け椅子だけど必要だし役にも立つんだよと言って記事を締めくくっているのは、哲学はまだ死んでないんだと世の中に訴えたいんだろう。

The New New Philosophy

By KWAME ANTHONY APPIAH
Published: December 9, 2007

新計画を実施するか決断しようとしてる会社の会長がいると仮定しよう。導入によって利益も上がるし環境にも貢献するとなる。「環境にいいかなんかどうでもいいんだ」と会長が言ったとする「利益が最大化されればそれでいいんだから、計画を実施しようじゃないか」。この場合皆さんは、会長が意図的に環境支援をしたと思うだろうか?

では同じように、計画の導入が環境に悪影響を与えるとする。会長は環境についてやはりどうでもいいと思っており、利益追求すべき計画を承認した。予想どおり、利益は上がったものの環境には悪影響が出た。この場合、会長は意図的に環境悪化させたと思うだろうか?

あなたがどう考えたか知りませんが、ある調査ではわずか23%の人が、最初の状況で会長は意図的に環境を支援したと答え、2つめの状況では、82%もの人が、会長は意図的に環境を悪化させたと考えたようだ。このような興味深い非対称的な結果についてたくさん語ることができると思う。しかし、一番衝撃的なのは、この調査を行なったのが哲学者だということだ、また新たな哲学を考える材料の為に・・・・。

これは「実験哲学」として知られる活動の一部なのだ。実験哲学は、生意気にもプロの哲学者が自分自身を好意的に考えているとこに挑みかかっている。哲学者は単にデータ集めに慣れていないだけでなく、そのような作業をすることから距離を置いてきたのである。プロとしての得意分野というのは最上の純粋思考にあると我々は思い込んでいるからだ。生物学の同僚はPCR装置を駆使し顕微鏡スライド上でDNAを染めている。政治家学者は人口分布図で流行を掴み、精神学者はねずみと迷路を使用している。哲学者は、親切そうな姿で彼らに手を振る。我々も実験科学はとても重要だと理解しているが、我々は、結婚式に対面するカトリックの牧師のような、我々の支援が理論全体に威厳を与えるような役割を好む。哲学者は観察せず、我々は実験も測定も数えることせず、ただ思考実験だけを好む。しかし、鍵となるのは思考だ。それは数ある哲学協会でもっとも哲学らしい協会のアリストテリアン・ソサエティの会長が数年前に「肘掛け椅子の上で出来ることはなんでも哲学だ」と言ったことに現れている。

でもいまや私たちの狭い部落での話はもはや通用しなくなりつつあり、伝統的な哲学の問題について、人々がどう考えるのか、また私たちの思考実験についてどう考えているのか椅子から離れ意見を集めることに光が当たってきている。新たなムーブメントは(若い研究者には「x-phi」と呼ばれている)は、栄光を開拓するブログになっている。もちろんウエブサイトのことではなく、米国哲学協会の年次会議での特別な論文と発表のことだ。カリフォルニア大学サンディエゴ校とアリゾナ大学の学生と教員が彼らのいう実験哲学工房を設置したし、今やインディアナ大学は実験認識論工房に特化している。神経学も組み入れている。哲学の院生も、人がモラル問題を考えているとき脳で何が起きているのか理解しようとfMRIの脳スキャンの読み取り方をだんだん勉強している。(冷徹な計算からどんな判断が生まれるのか?扁桃体(恐怖を感じる神経核)と感情がどのように判断に影響するのか)スプリンガーという出版社は、神経倫理というあらたな論文誌をはじめた。これは単に倫理学が神経学にモノ申すというのではなく、神経学が倫理学に何を言えるかというものだ。(ニューロが、今やナノに移っていることにお気付きだろうか?)オンライン議論グループの院生たちは、どの哲学問題は「実験しやすい」のか協議しており、これは1970年代にどの計画は同性愛者やハイデッガーリアンに受けるのか決めるようなものだ。そうだった、この初秋に、「実験哲学への歌」という音楽ビデオがYouTubeに掲載されていた。映像では肘掛け椅子が燃やされていた。
クリップボードと質問票だけで本当に哲学を行なえるだろうか?そのようにも見える。チャペル・ヒルにあるノースカロライナ大学のジョシュア・ノブは、 この企業会長の二つの話を人々に聞いてまわった哲学者だ。(完全版は、私が彼の博士論文の査定をおこなったときに読んだ) 多分、皆さんは、会長の考えがどうであろうとその行動について非難すべきか判断したのではないだろうか。そして意図的な行動についてこそ哲学者は多くを語りたがるものだ。しかし、ノブ効果とも言うものが十分奇妙なことは、その行動が意図的なのかどうか、我々が善悪を判断するまではっきりしない点にある。

議論グループに参加している哲学者は、多くのライバルから何が起きているのか説明を受け、新たな実験の方向を与えられる。そして、実験が示されまた新たな議論が行なわれる。ソルボンヌ大を経たピッツバーグ大学の科学哲学者のエドワード・マシュリーは、ジョーという男がいて地域のスムージー・ショップに行き、店で一番大きな飲み物を注文するという話をしてくれた。ジョーは、メガスムージーが、特別な記念カップに注がれて販売されていると知っていた。でも彼はカップにはこだわりがなく、単にメガスムージーが飲みたかっただけだ。この場合、彼は記念カップを意図的に貰ったことになるだろうか?皆さんのほとんどは違うと答えるだろう。その代わりに、もしメガスムージーの価格が高く、彼が余計に金を支払わなくなると聞いていたら?その場合でもジョーは金額を気にせず、メガスムージーを注文することだろう。彼は意図的して高くなった分のお金を払ったことになるのだろうか?皆はそうだと肯定するだろう。マシェリーは、前もって予想される行動の副産物を恩恵にともなうコストだと納得していたら、それは意図されたものと取れると結論付けた。だから先の避難された企業会長は、より毒を流すことは利益より害悪だと受け取られたのだろうか。そうではないとユタ大学の哲学者は、違うフィールドテストでさらに思考実験して彼の議論を強化すべきと言った。

実験者がいろいろ手を尽くしたのが予想した結果だけになっても(実験哲学は今や哲学である)、彼らの努力はよい契機をもたらした。ウィトゲンシュタインは、かつて「今日の天気は素敵じゃないですか?」と主張しているにもかかわらず疑問文と呼ばれている*」 と言った。もし何かを確かめるために研究の提案をするなら、頭がおかしいか生意気だと思われるに違いない。哲学者は、常に素敵なくらいに自信に満ちて「これを言うのは当然だ」と言う能力があるようだが、実験がこのような我々の自信を灰皿に投げ入れてしまうだろう。
戦後の言語哲学でもっとも有名な議論は、ソール・クリプキが、長く哲学者を悩ませていた問題を提起したことだった。名前はどうやって人やものを言及するのか。(質問を広げると言語はいかに現実性を帯びることができるのか?というもの)バートランド・ラッセルの理論がそれに答えた。名前とは基本的に記述の圧縮表現のことであり、人やものを質問の形で明確にする。クリプキはそれに懐疑的で、名前は命名儀式(baptism)に関係した参照すると提案していた。かつて誰かあるいはどこかのグループが対象に名前をつけ、緩やかな歴史的連鎖を経た後、我々はそのオリジナルの指定を今貸りていることになる。

このことを理解するために、クリプキは次のような思考実験をおこなった。ゲーデルの理論は、実は同僚のシュミットのもので、ゲーデルはどういうわけか論文を手に入れ著者として誤って評価されていると想像する。「ゲーデル」を論文の著者の名前としてだけ知っている人には、一体全体これは誰のことになるのだろうか?ラッセルの参照の視点によると、我々は実はシュミットを参照していることになる。「ゲーデル」とは、単に有名な理論を編纂した人の短い名前にすぎず、シュミットこそがこの説明の答えに当てはまる創造者ということになる。「しかし、私にはそうは思えない」「我々は単にそうではない。」とクリプキは異論を唱えた。

実験者は「我々」とは誰のことなのかい?と質問したくなる。先日マシェリーに導かれた哲学者チームがクリプキと同じ問題を二つの学部生グループに示した。一つはニュージャージーの、もう一方は香港からの学生だった。アメリカ人学生は、クリプキが明らかにしていたことに答えようという傾向があった一方、中国人学生は、古い指示理論(*ここで古いとは、クリプキが言うような名前が固有名を指示するのではなく、大体その人や周辺を指示していること)に同意する直感を得ていた。これは多分、我々西洋の個人主義ではシュミットの名前をこの場合の答えとすることは、集団思考をする東アジア人には共有されなかったということだ。これはどういう説明であれ、あまり心地のよい結論ではない。「我々は単にそうではない」。これは多分、ラトガースとプリンストンの大学の間で分裂することだろう。地球の反対側では(我々が肯定しないことも)肯定されるのだ。これについて哲学者はどういう対処をとるべきだろうか?

私にはよくわからない。というのはここに指示理論に関して問題がある。クリプキの考えたものと彼が挑戦している二つのバージョンだ。いろんな哲学者がさまざまなことを考えている。双方とも直感が正しい答えを決め、もし正しい答えがあるとするなら、頭数で決められる必要はない。実験哲学の最たる仕事は、実際に実験をしなかったとしても価値があり提案すべきものがある。(「ある状況では先の企業の会長は意図的に環境にダメージを与えた、一方で・・・」「というのが自然かもしれない」とノブは書いたかもしれない) Xphi(実験哲学)は、例え隣の会社で使われても、我々は、正直であり個人的な直感にバランスをとるようにと教える。しかし、実験はたとえ、哲学的議論を色づけるにしても、解決はしないというのが私自信の経験による観察だ。
例えば、意図を、興味深い位置とづけるのは有効だろうか?そして、それはなぜだろう? (ノブ効果というのは煩わしいものなのか、それとも注目に値するのか?) 皆さんは、もっと調査をして問題を明瞭にすることができるかもしれない。しかし、見つけたものを観察するという仕事が残っており、それをぼんやり見るだけでは観察ではない。常にクリップボードと質問票やMRIを常に脇に置かなきゃいけないときがあるのだ。物事を整理するために、他に強力な道具が必要だ。一つはそこにあるではないか。ばねは少し弱まって、クッションも疲弊しているけど、でもまあ気にしないで。その肘掛け椅子はきっと役に立つよ。


*ウィトゲンシュタインの主張を疑問文で呼んでいるというくだりは、哲学探求のアフォリズム21を参照した模様。
http://users.rcn.com/rathbone/lw21-30c.htm
日本語翻訳 by ミック氏

*指示理論の新・旧の定義は
http://www.qsmithwmu.com/marcus,_kripke,_and_the_origin_of_the_new_theory_of_reference.htm
"The New Theory implies that r;- many locutions (e.g., proper names) refer directly to items, which contrasts with the traditional or old theory of reference, which implies that names and relevantly similar locutions express descriptive"

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